石田三成の実像2960 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」25 本間宏氏「上杉景勝の戦い」5 会津征討直前の上杉家の動き

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長5年の会津攻めのきっかけとなった、いわゆる「直江状」と、6月10日付の上杉景勝書状の内容が酷似していることが指摘されていることは前述しましたが、この書状についての解説の続きです。
 「重臣に宛てた景勝のこの書状は、家中の結束を求めるものであった。『右の拠(よ)ん所無き趣を分別仕(つかまつ)り候者は、供の用意を申し付けべく候』と言い、逆に分別なく『理不尽の滅亡』と思う者は、誰であろうと解雇すると述べている。そして、上方の軍勢が下ってくるという日限がわかり次第、戦闘態勢に移るよう指示している。領地境が突破されれば地下人(じげにん)が反乱を起こすことを『必然』と想定し、家臣の離反を防ぎ、忠誠を求める指示を下したのである」と。
 上杉景勝が、家康と戦うことを覚悟し、臨戦態勢を整えていることがわかります。拙ブログで前述したように、水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、「会津征討は上杉氏の対応に関係なく、家康の思惑によって強引に導かれた回避不能のものであった」と指摘されていますが、この景勝書状からも、上杉側からの要望に一切耳を傾けようとせず、軍事力を背景に上杉氏を屈服させようとする家康の並々ならぬ姿勢がうかがえます。上杉側も戦いを辞せずというここまで強い姿勢を取ったのは、自分たちに味方してくれる反家康勢力がいるからで、彼らに期待を寄せていたのではないでしょうか。それを裏付けるものとして、桐野作人氏の「兼続と三成ー立場の違いを超えた共闘ー」の中で、慶長5年における「直江兼続・上杉景勝と石田三成の往復書簡」が表にして掲載されていますが、推定も含めて少なくとも9通のやりとりがあったと指摘されています。そのうち、6月20日付の兼続宛三成書状は偽書説もあるものの、笠谷和比古氏が本物だと指摘していることを紹介し、その書状の内容から、それ以前に兼続から三成に書状を出したことが推定されています。そうだとすれば、兼続は、家康が上杉氏に矛先を向けた時から、三成と連絡を取っていたことになり、三成たちに期待をかけていたことがわかります。
 上記の景勝書状の中で、領内が動揺し、離反が起こることを想定しますが、実際、そういうことが起こったことについて、本間氏の同書に次のように記されています。
 「6月25日、上杉領の伊達郡掛田(かけだ)において領民の反乱が起こり、簗川(やながわ)城勢らが鎮圧した。景勝の不安は、早くも現実のものとなりつつあった」と。
 会津征討という事態を受けて、当然のことながら、上杉家の領内は騒然とし、慌ただしい動きを見せていたわけです。

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