石田三成の実像2962 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」14 大坂夏の陣で徳川方として加わる3 付記 若江・八尾の戦いの場になったあたりにある若江城跡を「三成伝説」で紹介 

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門が、大坂夏の陣の、慶長20年5月6日に行われた八尾・若江の戦いに、徳川方として戦ったことが記されていますが、この戦いの記述についての解説の続きです。
 「『惣右衛門覚書』によれば、この戦い(八尾・若江の戦い)における大坂方(豊臣秀頼方)の人数は7000~8000であり、木村重成の手前は井伊直孝が布陣し、藤堂高虎の手前は長宗我部盛親が布陣していた。この両方で合戦があり、本城惣右衛門は木村重成の手前へ攻めかかった。この戦いは、八尾・若江の戦い(慶長20年5月6日)のことを指しているので、その具体的戦況の推移がわかるという点で、『惣右衛門覚書』の記載内容は重要である」と。
 本城惣右衛門が経験した具体的な戦況については、後述しますが、この八尾・若江の戦いが始まる状況について、渡邊大門氏の「大坂落城 戦国終焉の舞台」(角川選書)の中で、次のように記されています。
 「(真田)信繁らが誉田で奮戦している頃、木村重成らは大坂城から東に約8キロメートル離れた若江に向かっていた。家康・秀忠軍を同地で迎撃するためである。重成は約4700の兵を率いて、6日の午前2時頃に出発した。若江に到着したのは3時間後の午前5時頃で、全軍を三つに分けて徳川方を攻撃しようとしていた。
 徳川方の前線にあったのは、藤堂高虎の率いる軍勢であった。高虎は重成の軍勢が若江一帯に着陣したことを知ると、秀忠にこの旨を注進し交戦に至った」などと。
渡邊氏の同書が、木村重成の軍勢の数について、何の史料を根拠にしているのかはわかりませんが、「本城惣右衛門覚書」の数字は長宗我部
盛親の軍勢も含んでいるのかもしれません。このあたりの大坂方の具体的な軍勢の数については、「覚書」の数字が正しいのか今後の検討課題だと思われます。
 オンライン三成会編の「三成伝説」(サンライズ出版)の「舞兵庫」の章に、若江城跡の写真と説明を載せましたが、三成の家臣の舞兵庫は若江八人衆の一人だったからで、若江八人衆のうち舞兵庫の他、大山伯耆・森九兵衛・大場土佐・高野越中・牧野成里も三成の家臣でした。若江城跡の近くに木村重成の墓もあり、このあたりが若江・八尾の戦いの場になりました。
 

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