石田三成の実像2967 「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」5 家康方軍勢の最前線の城は清須城・家康の江戸出馬予定日
白峰旬氏の論考「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」(2020年発行『別府大学紀要』第61号所載)の中で、この書状の原文、現代語訳が紹介され、その内容が検討されていますが、その続きです。
第11条の「清須城(尾張国)までの道筋(の諸城)は確実に(徳川方が)受け取った」と現代語訳されている部分について、「このことから、8月21日(この書状の日付)の時点で、豊臣公儀方の軍勢と対峙する家康方の軍勢の最前線の城は清須城であったことがわかる」と解説されています。
清須城の城主は福島正則であり、家康方軍勢はこの時点で、続々と清須城に集結していました。大垣城に入っていた三成は、清須城と交渉していましたが、攻めることはしていませんでした。三成たちは福島正則が豊臣恩顧の武将だけに豊臣秀頼を推戴する新たな豊臣公儀方に付いてくれるものと期待していたのではないでしょうか。そこに三成たち豊臣公儀方の甘さがあったと云えますが、豊臣公儀を標榜する側の姿勢として、秀吉の子飼いの武将に対して、強硬な手段を取れなかったとも考えられます。三成は共に長浜城時代から福島正則たちと共に歩んできた経緯がありますから、通説とは違って、三成と福島正則とはそれほど仲が悪くなかったのかもしれません。三成や長束正家・増田長盛らを吏僚派、福島正則・加藤清正らを武断派と捉え、その間に対立があったとする従来からの通説は考え直す必要があるのではないでしょうか。三成にしても忍城攻めや文禄の役の際の碧蹄館の戦いに武将として活躍していますし、清正の方は逆にきめ細かな領国経営をしていますから、清正らを武断派としてくくってしまうのは的を射ていません。
第12条の「家康も来る(8月)24、25日頃には尾州(=尾張国)方面へ(向けて江戸から)出馬する(予定である)」と現代語訳されている部分について、次のように解説されています。
「実際に家康が江戸城から出陣したのは9月朔日である」「家康の出馬の目的地が美濃国方面ではなく尾張国方面としている点に注意したい。その理由としては、この書状が出された8月21日の時点では、福島正則など家康方諸将による岐阜城(美濃国)攻撃(8月23日)がされていなかったため、家康の出馬の目的地として美濃国方面までは視野に入れていなかったのであろう」と。
福島正則ら家康方軍勢が豊臣公儀方の岐阜城を落としたことによって、状況が大きく変わってきます。三成ら豊臣公儀方は、大垣城と岐阜城を結ぶ線で家康方軍勢を防ごうと考えていましたが、その戦略がもろくも崩れてしまいました。家康の方は、岐阜城陥落の報を受けて、西上に踏み切ったわけです。
第11条の「清須城(尾張国)までの道筋(の諸城)は確実に(徳川方が)受け取った」と現代語訳されている部分について、「このことから、8月21日(この書状の日付)の時点で、豊臣公儀方の軍勢と対峙する家康方の軍勢の最前線の城は清須城であったことがわかる」と解説されています。
清須城の城主は福島正則であり、家康方軍勢はこの時点で、続々と清須城に集結していました。大垣城に入っていた三成は、清須城と交渉していましたが、攻めることはしていませんでした。三成たちは福島正則が豊臣恩顧の武将だけに豊臣秀頼を推戴する新たな豊臣公儀方に付いてくれるものと期待していたのではないでしょうか。そこに三成たち豊臣公儀方の甘さがあったと云えますが、豊臣公儀を標榜する側の姿勢として、秀吉の子飼いの武将に対して、強硬な手段を取れなかったとも考えられます。三成は共に長浜城時代から福島正則たちと共に歩んできた経緯がありますから、通説とは違って、三成と福島正則とはそれほど仲が悪くなかったのかもしれません。三成や長束正家・増田長盛らを吏僚派、福島正則・加藤清正らを武断派と捉え、その間に対立があったとする従来からの通説は考え直す必要があるのではないでしょうか。三成にしても忍城攻めや文禄の役の際の碧蹄館の戦いに武将として活躍していますし、清正の方は逆にきめ細かな領国経営をしていますから、清正らを武断派としてくくってしまうのは的を射ていません。
第12条の「家康も来る(8月)24、25日頃には尾州(=尾張国)方面へ(向けて江戸から)出馬する(予定である)」と現代語訳されている部分について、次のように解説されています。
「実際に家康が江戸城から出陣したのは9月朔日である」「家康の出馬の目的地が美濃国方面ではなく尾張国方面としている点に注意したい。その理由としては、この書状が出された8月21日の時点では、福島正則など家康方諸将による岐阜城(美濃国)攻撃(8月23日)がされていなかったため、家康の出馬の目的地として美濃国方面までは視野に入れていなかったのであろう」と。
福島正則ら家康方軍勢が豊臣公儀方の岐阜城を落としたことによって、状況が大きく変わってきます。三成ら豊臣公儀方は、大垣城と岐阜城を結ぶ線で家康方軍勢を防ごうと考えていましたが、その戦略がもろくも崩れてしまいました。家康の方は、岐阜城陥落の報を受けて、西上に踏み切ったわけです。
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