石田三成の実像2949 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」44 慶長3年1月21日付の蜂須賀家政宛徳川秀忠書状・秀忠は病気回復中

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、蜂須賀氏に関係したものとして、慶長3年(1598)1月21日付の蜂須賀家政宛徳川秀忠書状が掲載されており、次のように解説されています。
 「蔚山城の戦いの終結後、徳川秀忠から家政に送られた書状。救援軍として合戦に参加した家政を『御手柄』と称賛し、音信として小袖などを贈っている。同じく蔚山城の戦いの戦功を賞した秀忠の書状は、黒田長政に対しても送られていることが確認され、大陸在陣中の諸将と、積極的に親交を結ぼうとする秀忠の姿勢がうかがえる。さて、このように蔚山城の戦いは家政にとって功績に数えられるべきものであったはずだが、福原長堯ら目付衆から秀吉に対し、明軍・朝鮮軍との合戦に家政が消極的であったという注進がなされたことで事態は急変する。結果、秀吉の勘気を蒙るところとなった家政は、日本に召喚された上で分国での謹慎を命じられるのである」と。
 秀忠がこの書状が出した時は、病気から完全には回復していませんでした。このことについて、福田千鶴氏の「徳川秀忠」(新人物往来社)には次のように記されています。
 「(慶長2年)12月4日に秀忠は伏見に上ってきたが、『所労』ということで、いずれとも面会を絶っていた(『言経卿記」)。これが快復するのは翌3年正月25日頃であり(『浅野家文書』『黒田家文書』)、山科言経たちも2月1日になってようやく対顔できている(『言経卿記』)。快復した秀忠は、花を生けるため、白玉(椿)・白桃・白ぼけの三色の手配を浅野長政に依頼している(『浅野家文書』)。慰みとしたのだろう」などと。
 上記の書状を書いたのは、病気からの回復状態にあった中でのことだったことがわかりますが、解説文の通り、「諸将と、積極的に親交を結ぼうとする」ためであったかもしれませんし、豊臣政権の中で秀忠なりの役目を果たすためだったということも考えられます。福田氏の同書では、「秀吉は遺言で秀頼と秀忠娘の千の婚約を取り決めた」ということも記されており、この時点では秀忠は豊臣家寄りの姿勢を取っていたのではないかと考えられます。
 家政は福原ら目付衆の報告によって、処分を受けるわけですが、福原らが日本に戻って伏見城で秀吉に対面した時、三成は上杉氏の会津転封をスムーズに進めるため、現地に赴いており、上方にはいませんでした。ですから、秀吉が家政らに対して処分を下した時、三成はそれに直接関わってはいなかったと考えられます。また拙ブログで繰り返し述べているように、三成は朝鮮出兵には反対の立場でしたし、文禄の役の際、実際に渡海して現地の悲惨な状況を目の当たりにして、和平交渉を進めましたから、諸将の思いはよくわかっていたはずです。しかし、目付衆は豊臣政権の一翼を担っていましたから、秀吉の死後、諸将が目付衆を糾弾しようとした時、三成は目付衆を守る立場を取らざるを得ませんでした。そのためもあって、諸将の不満の矛先は、三成ら奉行衆にも向かうことになります。
 

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