石田三成の実像2976 番組「決戦!関ケ原 『空からスクープ 幻の巨大山城』」1 山中エリアで発見された玉城跡・三成方が玉城に布陣したという新見解

 NHKの「決戦!関ケ原 『空からスクープ 幻の巨大山城』」という番組で、航空機からレーザーを照射して、地表の凹凸を計測し、そのデーターを処理して作られた赤色立体地図から、関ヶ原の山中エリアに「玉城」という巨大な山城の跡があったことが明らかにされていました。千田嘉博氏らが実際に現地に足を運んで、切岸、竪堀、土塁、200メートルもの平坦な曲輪などがある(数万人を収容できる規模)ことを確認し、三成方が天下人の秀頼を迎え入れて指揮を執るために作られたのではないかと推定されていました。関ヶ原の戦いの主戦場は、関ヶ原ではなく山中エリアであり、三成方は山中に陣を置いていたという見解をかねてより示されている白峰旬氏もその番組に出ておられましたが、三成方が玉城に登って布陣したと考えるのが自然な解釈だという見解を述べておられました。玉城の新発見が、白峰説を裏付けた形です。
 今まで城山山頂の玉城にはほとんどの研究者が注目してきませんでしたし、私も初耳でした。むろん、玉城に登ったことはありません。
 もっとも、三成方が玉城に布陣したという新たな見解については、疑問点も残ります。玉城に三成らが陣を置いたとするなら、堅牢な城だけに、防備も固く、攻めるのも容易には行かなかったはずで、戦いはある程度の期間続いたはずです。わずか半日を待たずして決着がついたというのは考えにくい気がします。また玉城に入ったのは、三成隊だけでしょうか。小西行長隊、宇喜多秀家隊らは玉城に入っていたのでしょうか。それとも彼らは玉城とは別の場所に布陣していたのでしょうか。
 白峰氏は山中エリアでの戦いは午前10時頃に始まり、正午には決着がついたと主張されています。三成方軍勢の先備として、三成の他、宇喜多秀家・島津豊久・小西行長の名が挙げられています。三成は玉城から打って出たのでしょうか。それとも玉城に入ったままだったのでしょうか。このあたり、具体的なことは今後の研究成果を俟ちたいと思います。
 高橋陽介氏は、拙ブログでも前述したように、三成方軍勢の山中エリアにおける新たな布陣図を提示されています。その布陣図では、玉城は出ていず、三成方はもっと東側に布陣したと推定されています。三成の本陣は、自害峰に比定されていますが、玉城よりは、ずっと東南の位置にあります。
 山中エリアにある大谷吉継の墓や、その南にある大谷吉継の陣跡とされる碑は、玉城のある城山の東麓に位置し、ここからさらに西に登ったところに城山はあります。地図を見ると、大谷吉継の墓から、東海自然歩道を歩いて、城山山頂まで行くことができるようなので、来年あたり一度、玉城跡を見に行くつもりです。
 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

この記事へのコメント