今年の干支を折り込んだ折句歌・石田三成の実像2978「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」9 秀忠の進軍目的は上田城攻め

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 う(憂)きことの
 しき(頻)りなる世に
 のぞ(望)み持ち
 とき(時)に流されず
 しんじつ(真実)見極む            ※「うしのとし」を折り込んだ「折句歌」です。

 さて、白峰旬氏の論考「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」(2020年発行『別府大学紀要』第61号所載)の中で、この書状の原文、現代語訳が紹介され、その内容が検討されていますが、その続きです。
 第17条の「近日、真田(昌幸の上田城)へ(討伐するために徳川秀忠が)出陣する。私(大久保長安)も(秀忠に従って)その地(=信濃国上田)へ行くので」、第18条の「その方面(=上田城方面)には徳川秀忠が出陣の予定である」と、それぞれ現代語訳されている部分について、まず次のように解説されています(後の部分は後述します)。
「秀忠の出陣目的(上田城攻め)が明確に記されている点は重要である。そして、上田城攻めに大久保長安も従って参陣する、としている」と。
 家康が東海道を通って西上したのに対して、別働隊の秀忠は中山道を進んでいくわけですが、秀忠軍の進軍目的は、真田氏の上田城攻めだったということは、桐野作人氏の「真説 関ヶ原合戦」(学研M文庫)で、次のように記されています。
 「近年の笠谷和比古氏や藤井讓治氏の先行研究も指摘するように、それは信州上田城にこもる真田昌幸を攻めるのが当初の任務だったというべきである[笠谷1994、藤井2000]」と。
 その根拠として、8月23日付の真田信幸宛徳川秀忠書状、同日付の岡田善同(織田信雄の元家老)宛徳川秀忠書状、8月24日付の浅野長政宛徳川家康書状の記述内容が挙げられています。
 また桐野氏の同書には、「家康が秀忠勢の任務を信州平定から中山道西上に変更した」理由について、「やはり、岐阜城攻略の急報が届いた8月27日が契機だったと思われる」と記されています。
 その根拠として、8月28日付の浅野長政宛徳川家康書状の記述内容が挙げられています。
 家康が江戸から出陣したのは、9月1日のことですが、その契機も、家康方軍勢による岐阜城落城の報に接したからでした。
 岐阜城が落城した8月23日、大垣城を出て佐渡(さわたり)に陣を置いていた三成は、徳川方軍勢が合渡川の戦いで石田勢に勝利したのを知って、大垣城に急いで戻っています。

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