石田三成の実像2977 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」29 本間宏氏「上杉景勝の戦い」9 7月23日付の最上義光宛徳川家康書状 三成と吉継の決起を伝える

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、会津攻めのために江戸を7月21日に出立した家康のその直後の動きについて、次のように記されています。
 「7月23日、石田三成と大谷吉継(吉隆)の決起を伝える情報が徳川家康のもとに届いた。大坂城の淀殿と豊臣氏奉行衆(長束正家・増田長盛・前田玄以)は、この騒動を鎮圧するため、家康に上洛するように依頼していた。この日、家康は、上杉攻めの中止を最上義光に伝えた。いわゆる『小山評定』を経ずしての決断である」と。
 「小山評定」の前に、家康が独断で上杉攻めを中止していたとすれば、諸将との協議によって上杉攻めを決めたとする「小山評定」の信憑性が薄れる気がします。家康が、三成と吉継の決起をいつ知ったのかということについては、本多隆成氏の「定本 徳川家康」(吉川弘文館)の中で、次のように記されています。
 「7月12日付けで増田長盛から永井直勝に宛てられた書状で、石田三成・大谷吉継の挙兵が報じられ、19日には家康もこれを知るところとなった」と。
 もっとも、この書状については、白峰氏は「偽文書の可能性も視野に入れて検討すべきである」と指摘されています。その根拠として、「①原文書がなく写の文書しか伝存しない、②内容的に文章が短すぎる、③反家康として活発に動いていた安国寺恵瓊の動きについて全く触れていない、などの点」が挙げられています。
 この書状が偽文書であるとするなら、家康が19日に三成・吉継の挙兵を知ったということは怪しくなります。
 本間氏の同書の「豊臣氏奉行衆(長束正家・増田長盛・前田玄以)は、この騒動を鎮圧するため、家康に上洛するように依頼していた」という記述ですが、7月23日付の最上義光宛の徳川家康書状にそういう内容のことが記されています。石畑匡基氏の「増田長盛と豊臣の『公儀』」(谷口央氏編『関ケ原合戦の深層』所収)の中で、この書状について取り上げられていますが、その内容について、次のように記されています。 
 すなわち、「長盛ら三奉行は家康と『一所』であるので、(証拠として)三奉行からの書状を送るとしており、長盛個人の書状のほかに、三奉行の連署状が家康に到来し」、「三奉行の連署状は12~14日の間に発給されたと考えられる」と指摘されています。
 もっとも、この三奉行連署状については、白峰氏作成の「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」には記載されていないので、その原本なり写本なりは残っていないと思われます。家康書状の内容から、そういうものがあったと推定されているわけですが、その書状を送ると記していることからみて、あった可能性は高いと云えます。
少なくとも、この時点で、家康は三成・吉継らの挙兵を知っていたのは確実だと思われます。

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