石田三成の実像2985 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」20 人名の読み方1 滝川一益は「たけがわ」「たけかわ」と読んでいた可能性 付記・秀吉時代は三成同様、関東諸将との取次(齋藤慎一郎氏「戦国時代の終焉」)

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、「本城惣右衛門覚書」から得られる知見について提示されていますが、そのうち人名の読み方について、まず次のように指摘されています。
 「①滝川一益の読み方は、通説では『滝川』は『たきがわ』と読んでいるが、通説とは異なり、当時は『たけがわ』或いは『たけかわ』と読んでいた可能性がある(滝川雄利の『滝川』の読み方も同様)」と。
 滝川一益の滝川は通説とは違って「たけがわ」「たけかわ」と読んでいた可能性があるという指摘に興味が惹かれます。実際そうであったかどうかは、他の史料の分析を含めて今後検討すべき課題だと言えます。滝川一益は、織田信長の家臣ですが、本能寺の変の際は、関東方面軍を率いていて、上野国にいました。そのため、織田家の後継者を決める清須会議には参加できませんでした。天正11年の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家側に付きましたが、天正12年の小牧・長久手の戦いでは秀吉側に付きました。一益は関東に地の利があることから、秀吉と東国諸将との取次も務めています。
 小牧・長久手の戦いの際、関東では、北条氏と佐竹義重・宇都宮国綱との間で沼尻の戦いが起こりますが、その戦いについて齋藤慎一郎氏の「戦国時代の終焉」(中公新書)の中で詳述されています。その戦いの直前、佐竹が秀吉に書状を送り、それに対して、秀吉が返書を送りますが、その添状を滝川一益が書きます。齋藤氏の同書には、その添状について次のように記されています。
 「『家康がこのたび、討ち果たされることは、もはや眼前である。しからば早速に相州へ馬を寄せられるという手順が定まっている』と報じている。秀吉は家康を滅ぼして北条氏政・氏直を攻めると考えている。滝川一益の見解にも二つの合戦が連動していることを確認することができる」と。
 家康は北条氏と同盟を結んでおり、秀吉は反北条の関東諸将との結びつきを強めていました。三成もその後、関東諸将との書状のやりとりや交流を続けています。齋藤氏の同書には、天正14年5月25日付の塩谷義綱・白川義親宛秀吉朱印状(関東停戦令)、及びその時の増田長盛・石田三成副状、天正17年7月27日付の増田長盛・石田三成宛白川義親書状、同年10月5日付の那須資晴宛増田長盛・石田三成副状などが取り上げられ、「天正17年3月の段階でも宇都宮国綱は上杉景勝を通して石田三成に接触しており、この関係は天正18年まで続いた」ことなども記されています。
 滝川一益は、天正14年に亡くなっていますから、北条氏の滅亡を見ることはありませんでした。

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