石田三成の実像2986 白峰旬氏「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」11 清須城の浅野幸長から家康に書状 渡邊大門氏「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」1 岐阜城攻めの経緯・幸長が瑞龍寺山砦へ攻撃を開始

 白峰旬氏の論考「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」(2020年発行『別府大学紀要』第61号所載)の中で、第19条の「浅野幸長(=この時点で清須城[尾張国]に在陣していたか?)から念を入れて、一つ書き(の書状)をもって家康に申し上げた」と現代語訳されている部分について、「このことは、『(慶長5年)8月24日付浅野長政宛徳川家康書状』に『左京大夫殿、万入御念被仰越候段、難申尽存候』と記されている点と符号する」と解説されています。
 清須城は福島正則の居城であり、豊臣恩顧の武将を中心とする家康方軍勢が続々と清須城に入っていました。浅野幸長が入城した日については、よくわかりませんが、8月19日に家康の使者である村越茂助が、清須城に到着して、家康が出馬しないのは、諸将が清須城にとどまったまま戦いをしないからだと言ったところ、福島正則はこの言葉に発憤して岐阜城を攻める決意をしたという有名な逸話があります。これは、「板坂ト斎覚書」に記されていることで、渡邊大門氏の「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」(『関ヶ原大乱、本当の勝者』所載)の中で、この「逸話は二次史料に書かれたものであり、多少割り引いて考えるべきかもしれない」と指摘されています。いかにも出来過ぎた印象を受けますので、本当にこのようなやりとりがあったのか、よく吟味する必要があるように思います。この時点で、浅野幸長も清須城にいたのではないでしょうか。
 家康方武将3万4000人が岐阜城に向かったのは、8月21日のことですが、渡邊氏の同書によると、浅野幸長は池田輝政が率いる部隊に属し、岐阜城の大手へ向かっています。一方、福島正則の率いる部隊は岐阜城の搦手へ向かっています。岐阜城主の織田秀信は、城を守備するために「岐阜城へ向かう稲葉山砦、権現山砦、瑞龍寺砦と登山口四ヶ所に兵を分散し」、22日に「秀信は自ら出陣し、池田軍と印食(岐阜県岐南町で戦うが敗北を喫し、虚しく岐阜城へ引き上げた」が、その後の経緯は次のように記されています。
 8月23日、「浅野幸長が瑞龍寺山砦へ攻撃を開始すると、続いて井伊直政が稲葉山砦、権現山砦に攻め入った」、「一方の福島正則は、登山口から岐阜城へと迫った。こうして岐阜城は完全に包囲されてしまったが、落城寸前の岐阜城には、最後まで援軍はやって来なかった」と。
 浅野幸長が岐阜城攻めの火蓋を切った形ですが、こうして寡兵の岐阜城はもろくも落ちてしまったわけです。
 前述したように、この時、三成や小西行長は、大垣城を出て佐渡(さわたり)に布陣し、島津義弘は墨俣に布陣し、三成の家臣の舞兵庫たちは合渡川を守っていました。三成たちは、清須城にいた家康方軍勢が多勢で岐阜城に攻撃し、岐阜城がたやすく落城するとは予想していなかったのかもしれません。むろん、三成は家臣を岐阜城に派遣するなど手は打っていましたが、多勢を前に役に立ちませんでした。この時点で美濃方面に展開している豊臣公儀方軍勢はそれほど多くなく、尾張の清須城まで攻める余裕はありませんでした。三成らが気がついた時には、岐阜城が落とされ、さらに家康方軍勢が合渡川の戦いで三成方軍勢を破っていました。このため、三成らは大垣城に引き上げて、戦略を練り直す必要性に駆られ、北国方面軍や伊勢方面軍に急ぎ大垣・関ヶ原方面に結集するように呼びかけたわけです。
 

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