石田三成の実像2988 白峰旬氏「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」12 石川康長への書状 付記・石川家成は後に大垣藩主に・歴代の大垣藩主

 白峰旬氏の論考「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」(2020年発行『別府大学紀要』第61号所載)の中で、第20条の「(大久保長安から)深志(=松本)への書状(=松本城主・石川康長への書状)を遣わしたので 安心するように」、第21条の「松本(城主の石川康長)へは何事も大久保長安次第に申し付けるべき旨の(家康の)朱印状を遣わしたので、これまた安心するように」、第27条の「松本より米(=兵粮米)が必要であることについて(申し出があったので)、とにかく私(大久保長安)の方より渡辺金内(松本城主・石川康長の家臣)へ書状を出した。石川康長の叔父(ママ)である石川家成より(石川康長宛の)書状を用意して、遠山友政(苗木遠山氏)が(そちら[=木曽谷]に)行った時に(遠山友政が持参して石川康長にその書状を)出す予定である」、とそれぞれ現代語訳されている部分について、次のように解説されています。
「松本城主の石川康長は、天正13年(1585)に家康のもとを出奔して豊臣秀吉へ仕えた石川数正の嫡男であり、家康サイドとしてもその動向に注意を払っていたと思われる。そのため、①石川康長へは大久保長安の指示に従うように、とする家康の意図を伝えた、②松本城の兵粮米に関する指示を出した、③石川康長の叔父(ママ)である石川家成より石川康長宛の書状を用意した、などの対応をしているのであろう」と。
 石川康長は秀忠による上田城攻めに参加し、家康方として行動しています。もっとも、後に大久保長安事件に連座して、改易になり、流罪になりました。
 石川家成は実際は、石川数正の叔父であり、大垣藩の二代目藩主となります。関ヶ原の戦いの直前の大垣城の城主は伊藤盛正でしたが、三成がこの城に入り、美濃方面の拠点とします。しかし、関ヶ原の山中エリアで三成ら豊臣公儀方が敗れた後、大垣城も敵に内通した味方の裏切りによって落城します。その後に初代藩主となったのが、石川家成の子の康道でした。5万石の領知でした。康道が54歳で亡くなると、康道の子が幼少だったため、跡を継いだのが、隠退していた家成だったわけです。時に慶長12年、家成は74歳でしたが、2年後に亡くなります。
 三代目藩主は石川忠総で、大久保忠隣の次男でしたが家成の養子になりました。忠総は大坂の陣で功を挙げたので、豊後日田に移封され、代わって松平忠良が大垣藩の藩主になりました。松平氏の藩主は二代にわたって続き、さらに岡部氏二代、松平氏一代と代わり、寛永12年(1635)に戸田氏鉄が大垣藩主になると、戸田氏の藩政はそれから幕末まで11代にわたって長く続きました。今でも、大垣と云えば、戸田氏のイメージが強いように思われます。もっとも、最近では、三成が大垣城に入城し、豊臣公儀側の美濃の拠点となり、関ヶ原方面に移動しなければ決戦の場になったかもしれないということで、見直されている感もありますが。

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