石田三成の実像2987 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」32 本間宏氏「上杉景勝の戦い」12 菅原義勝氏「最上義光の戦い」1 8月12日付兼続書状をめぐって

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、家康に対する弾劾状である「『内府ちがひの条々』は、兼続を介して奥羽諸将に伝送されたのである」と記されていることは前述しましたが、それを知った奥羽諸将の動きについて、次のように記されています。
 「最上義光のもとに参陣していた秋田氏、南部氏、仙北衆らは、義光と起請文を交わすなどして、家康の許可を待たず帰国の途に就き始めた。兼続が岩井信能に宛てた8月12日書状には、山形から『南部、仙北衆』が引き払ったため最上義光が取り乱していること、由利衆と小野寺氏も上杉方であること、桑折(伊達郡)付近まで侵攻していた伊達政宗が、上方の情勢を知ってか8月9日頃に兵を引いたことなどが記されている(『8月12日付直江兼続書状写』【歴代古案】)」と。
 もっとも、秋田氏ら奥羽諸将が「家康の許可を待たず帰国の途に就き始めた」という点については、菅原義勝氏の「最上義光の戦い」の中で否定されています。
 すなわち、「田中清六からの通達を8月中旬に受けて以後、つまり家康から自領待機という意思が伝わって以後、帰国を判断したのだろう」と。
 「田中清六とは、7月7日付の家康の直書を携えて派遣された者の一人で」、「会津出兵中止の決定後、家康は再び田中清六を奥羽諸将のもとへ派遣していたようで」、「8月19日付で小野寺、六郷、南部各氏に宛てた家康の直書」の中に、次のような内容が記されていることが取り上げらています。
 「田中清六に(会津出兵中止について)伝えていたので参陣しないと思っていたが、出陣してくれたのは嬉しい限りである。すぐに帰国して休息するように」と。
 「田中清六からの連絡は8月中旬頃には届いたものと思われ」、「8月19日付の家康書状は8月末から9月初めに奥羽諸将の手元に届いたものと思われ、秋田実季は8月28日に山形から陣を引き払っている」と菅原氏の同書で指摘されています。
 さらに8月12日付兼続書状の中の、「由利地域の諸氏が上杉氏の味方になったというのも事実とは異なる」ということも指摘されています。
 こうしてみると、菅原氏の見解の方が、具体的な根拠が挙げられているだけに、分があるように思います。ただし、「家康撤兵の噂が瞬く間に広がり」、最上義光が「取り乱して」いるという兼続書状の記述内容については、菅原氏も肯定されています。

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