石田三成の実像2991 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」22 人名の読み方3 太閤は「たいこ」、堀尾吉晴は「おりお」と読んだ可能性  付記・秀頼宛秀吉書状では「大かうとと」・堀尾吉晴の事績

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、「本城惣右衛門覚書」から得られる知見について提示されていますが、そのうち人名の読み方についての指摘の続きです。
「③『太閤』は、通説では『たいこう』という読み方であるが、当時は『たいこ』と読んだ可能性がある、
 ④堀尾吉晴の読み方は、通説では『ほりお』という読み方であるが、当時は『おりお』と読んだ可能性がある」と。
 「太閤」を「たいこ」と縮めて読んだ可能性があることを指摘されているわけですが、これもそういう例が他にあるか別の史料に当たる必要があると思います。
 染谷光廣氏の「秀吉の手紙を読む」(吉川弘文館)の中で、慶長2年のものと推定される5月3日付の秀頼宛秀吉書状が取り上げられています。秀吉は自分のことを「大かうとと」と記しています。「太閤父」の意味ですが、この場合は「たいかう」と読んでいることになります。もっとも、他人が「たいこ」と読んでいたことは考えられないことはないので、検討すべき課題だと思われます。
 慶長2年5月3日、秀吉は伏見に、秀頼は大坂にいましたが、6日に大坂へ行き、秀頼に会った後、また伏見に戻っています。14日には秀頼が伏見城に移り、秀吉と同居しています。
 この時期、三成は京・伏見あたりにいたものと中野等氏は推定されています。5月に三成は神竜院梵舜に「源平盛衰記」の書写を依頼していることも根拠として挙げられています。
 拙ブログで前述したように、本城惣右衛門は天正12年の小牧・長久手の戦いにおける伊勢亀山城攻めにおいて、堀尾吉晴の指揮下で戦ったと指摘されていました。堀尾の読みが「おりお」であった可能性についても、今後の検討課題だと思われます。
 堀尾吉晴は、天正13年に近江八幡城主の豊臣秀次の宿老となり、佐和山城を与えられました。吉晴は天正18年、秀吉による北条攻めの直後、浜松城主に移封されました。代わって、佐和山城を預かったのが三成でした。三成は美濃に約10万石の領知を与えられる一方で、近江の豊臣家蔵入地を支配する代官になっています。三成が正式に佐和山城主になったのは、文禄4年のことです。
 堀尾吉晴は関ヶ原の戦いの前年、家督を子の忠氏に譲り、隠居します。忠氏は関ヶ原の戦いの際は、家康方に属しました。家康の西上が可能になったのは、東海道沿いの豊臣恩顧の大名たちが家康の味方をしたからです。秀吉は北条攻めの後、東海道沿いに豊臣恩顧の武将たちを城主にして配置したのは、家康を牽制する意味合いが大きかったはずですが、それが見事に裏切られた形です。

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