京都探訪328 出町妙音堂(弁財天)へもお参り・後伏見天皇の女御となった西園寺寧子の念持仏が本尊・大光明寺を創建・女性の「治天の君」として院政を開始

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 幸神社にお参りした後、出町橋のそばにある出町妙音堂(弁財天)へもお参りしました。このお堂の本尊は、青龍妙音弁財天画像ですが、鎌倉時代、西園寺寧子が後伏見天皇の女御として入宮する時、念持仏として持参し、伏見離宮(伏見殿) に祀られました。江戸時代の享保年間に、伏見殿が出町北鴨口に移転した際、本尊も移りました。明治時代になって、本尊は東京に移されましたが、京都の人々が嘆願したため、京都に戻り、現在の場所に祀られました。
 後伏見天皇は、伏見天皇の子で、「持明院統」の天皇でした。寧子は後の光厳天皇、光明天皇を生んでいます。後伏見天皇(上皇)が亡くなった後、寧子は伏見離宮に大光明寺を建立します。大光明寺は、後に秀吉が指月伏見城を築城するにあたって、京都の相国寺内に移転させ、それが現在にもつながります。指月伏見城は慶長の大地震によって倒壊し、秀吉は近くの木幡山に新たな伏見城を築きます。伏見離宮、大光明寺があったところには、現在大光明寺陵がありますが、光明天皇、崇光天皇、伏見宮家の治仁親王が祀られています。
 伏見離宮、伏見殿を最初に造営したのは、後鳥羽上皇ですが、鎌倉時代に後深草上皇が行幸して以来、「持明院統」の上皇の離宮となります。
 「持明院統」という言い方ですが、高校の日本史などでは、北朝側を「持明院統」、南朝側を「大覚寺統」と呼び、私もそう教えられてきたものの、桃崎有一郎氏の「京都を壊した天皇、護った武士」(NHK出版新書)の中で、両者とも持明院、大覚寺をそれぞれ本拠にしたのは、両統迭立の後半だったと指摘されています。 
 たとえば、伏見天皇も、皇位を継いだ子の後伏見天皇も、富小路殿で践祚しましたが、譲位した伏見上皇が富小路殿に住み院御所にしたため、後伏見天皇は、その南隣の二条富小路殿を本内裏にしました(上皇と天皇は同じ場所に住めないため)。後伏見天皇も譲位した後、富小路殿を院御所にしています。
 ところで、西園寺寧子は61歳の時(南北朝時代)、女性の「治天の君」として院政を開始します。その契機となったのは、北朝側の光厳上皇、光明上皇、崇高天皇、皇太子が、南朝側に拉致されからで、寧子は後光厳天皇を即位させます。むろん、寧子が担ぎ出された背景には、幕府の内紛があったからですが。
 

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