石田三成の実像2989 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」21 人名の読み方2 増田長盛は「ましだ」と読んでいた可能性・石畑匡基氏「増田長盛と豊臣の『公儀』ー秀吉死後の権力闘争ー」「年寄」としての復権を図る

白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、「本城惣右衛門覚書」から得られる知見について提示されていますが、そのうち人名の読み方についての指摘の続きです。
  「②増田長盛の読み方は、通説では『増田』は『ました』という読み方であり、『ました』であれば通説通りの読み方であるが、『ましだ』であれば通説とは異なる読み方になる」
 豊臣政権下で五奉行の一人であった増田長盛の読み方が、「ましだ」という可能性があるというのも、初めて得た知見です。この読み方が正しいのかについても、他の史料に当たって今後検討すべき課題だと思います。前述したように、本城惣右衛門は慶長5年の伏見城攻めの際、増田長盛の指揮下で戦っています。
 増田長盛については、今まであまり研究の対象になってこなかったきらいがありますが、石畑匡基氏の「増田長盛と豊臣の『公儀』ー秀吉死後の権力闘争ー」の中で、増田長盛に着目しながら秀吉死後の「公儀」をめぐる権力闘争について検討されています。慶長4年閏3月、三成が佐和山に隠居したあとから、慶長5年に至るまでの長盛について、次のように記されています。
 慶長4年「9月、家康の大坂入城後にはその命令に従い日向庄内の乱に関与するなど、家康主導の『公儀』運営を支持していた。とはいえ、長盛は家康の命令に従順であったわけではなく、家康に会津征討の延期要請をするなどあくまで合議体制の維持を企図していた。しかし、この要請は家康に受け入れられることなく、長盛らは会津征討への協力を余儀なくされたのであろう。
 慶長5年7月、三成・吉継が決起すると、当初は家康や毛利輝元に対して決起の鎮定を要請するものの、結局三成らに与同し7月17日付で、家康による『公儀』運営などを弾劾する『内府ちがひの条々』を発給した。この中で長盛らは『年寄』を称し、ふたたび『豊臣家年寄』として『公儀』の中心に帰り咲くことを望んだのであろう」と。
 ここで注目すべきは、長盛らが「内府ちがひの条々」を出して自分たち奉行のことを再び「年寄」と称し、豊臣公儀の中心に返り咲くことを望んだという点です。堀越祐一氏は五大老・五奉行の呼称について、通説とは違って、阿倍勝則氏の先行研究を踏まえた上で、五奉行は自分たちのことを「年寄」と呼び、大老が逆に「奉行」と呼ばれていたことを指摘されていますが、三成が隠居し家康が豊臣政権の中心的存在になると、「年寄」を「奉行」と呼び替えたものの、長盛たちは家康に反旗を翻し、奉行のことを再び「年寄」と呼ぶことによって自分たちの復権をはかったと石畑氏は論じられているわけです。「合議体制の維持を企図していた」という点では、三成も同じであり、家康が「合議体制を維持」しようとする限り、挙兵することはなかったと思いますが、家康が上杉攻めを勝手に決めるなど政権の私物化が目に余ったからこそ、反旗を翻したのでしょうし、その思いは長盛も一緒だったと思います。

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