石田三成の実像2984 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」31 本間宏氏「上杉景勝の戦い」11 「内府ちがひの条々」によって正統性を失い動きが取れなくなった家康・兼続が「内府ちがひの条々」を奥羽諸将に伝送

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、家康が自分に対する弾劾状である「内府ちがひの条々」が出されていることを知った前後の動きについて、次のように記されています。
 「7月29日、徳川家康は、家康の所業を弾劾する『内府ちがひの条々』および7月17日付豊臣氏三奉行副状が全国に発送されていたことを知った。上洛を期して反転した豊臣恩顧の大名たちがなおも家康に従うかどうかは、ここにおいて予測不可能な状態となった。毛利、上杉、宇喜多の三大老のほか大坂三奉行をも敵に回すこととなった家康は、一転して公儀の立場を失い身動きできない状態に追い込まれたのである」と。
 8月5日に江戸に戻った家康は、8月中は江戸から動きませんでした。この点について、従来は、江戸にいて全国の大名に手紙を書き多数派工作をし、それが効を奏したと考えられましたが、白峰氏は家康は公儀性を奪われて、江戸を動けなかったのが実情だと指摘されており、本間氏の上記の記述も、白峰氏の見解を踏まえたものだと思われます。
 この点について、白峰氏の「新『関ヶ原合戦』論」(新人物ブックス)の中で、次のように記されています。
 「家康弾劾状である『内府ちかひの条々』は、上杉討伐にむけて軍事行動をとっていた家康の公儀性(上杉討伐の政治的正統性)を剥奪することを目的としており、その効果は大きかった。その結果、家康の上杉討伐は政治的・軍事的正統性を失い、中止に追い込まれた」
 「8月は石田・毛利連合軍が家康の留守将が守る伏見城を落城させるなど有利に戦いを進める中、打つ手がなく、追い詰められた家康は8月いっぱいは江戸城に引き籠らざるを得なかった」と。
 白峰氏は、「内府ちがひの条々」が家康に直接送られた可能性、豊臣公儀側から家康に対して江戸から動かないようにという書状が送られていた可能性も指摘されています。このあたり、実際、どうなのだったのか、さらなる検討が必要だと思われます。
 本間氏の同書では、「上杉氏のもとに『内府ちかひの条々』が届いたのは8月3日であった。兼続はその写しを家臣に送って激励している。また、秋田実季の晩年の述懐によると、『内府様御ちかひめ之条数』に兼続の書状が添えられて届き、『出羽国の諸侍、色めき立ち見え』との事態になったという(『秋田実季・最上義光対決之次第』【横手市史 史料編 古代・中世】)。つまり『内府ちがひの条々』は、兼続を介して奥羽諸将に伝送されたのである」と記されています。
 上杉氏は「内府ちかひの条々」を掲げることによって、義は自分たちの方にあり、豊臣公儀側に自分も属していることを示すことで、諸将に上杉攻めを中止して、自分たちの方に就くことを促したのでしょう。当時、秋田氏らは最上義光の陣にありましたが、上杉攻めが豊臣公儀の意思によるものであると信じていた奥羽諸将らにとって、上杉攻めを命じた家康が逆に豊臣公儀によって弾劾されたことは、衝撃的で彼らの間に大いなる混乱が生じたことがうかがえます。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 3

驚いた
面白い 面白い

この記事へのコメント