石田三成の実像2983 白峰旬氏「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」10 秀忠の進軍目的は上田城攻め2 関ヶ原は当初は戦場として全く想定されていなかった

 白峰旬氏の論考「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」(2020年発行『別府大学紀要』第61号所載)の中で、書状の記述から秀忠の出陣目的が上田城攻めであったことが指摘されているのは前述しましたが、その解説の続きです。
 「徳川秀忠が信濃国に向けて宇都宮城(下野国)から出陣したのは8月24日である。『(慶長5年)8月23日付真田信幸宛徳川秀忠書状』では、秀忠が明日24日に『此地』(=宇都宮)を発して『ちいさ形』(=信濃国小県郡)へ出陣するので、真田信幸に対して『彼表』へ参陣するように命じている。
 『(慶長5年)8月23日付佐久間安政宛徳川秀忠書状』、『(慶長5年)8月23日付平野長重宛徳川秀忠書状』には、『信州真田表』の『仕置』のために明日24日に出馬する、と記されている。この点も、秀忠の出陣目的(『信州真田表』の『仕置』)が明確に記されている、という意味で重要である。このことから、俗説で言われているように、秀忠が関ヶ原で家康の軍勢と合流する目的で宇都宮から出陣した、というのは何の根拠もない虚説であることがわかる(そもそも、関ヶ原は当初は戦場として全く想定されていなかった)」と。
 拙ブログで前述したように、桐野作人氏は、かねてから秀忠の出陣目的は上田城攻めであったと指摘され、その論拠として8月23日付真田信幸宛徳川秀忠書状の記述内容も挙げられています。桐野氏の「真説 関ヶ原合戦」(学研M文庫)には、8月23日付佐久間安政宛徳川秀忠書状、同日付平野長重宛徳川秀忠書状は取り上げられていませんが、同内容の同日付の岡田善同宛徳川秀忠書状が挙げられています。
 「そもそも、関ヶ原は当初は戦場として全く想定されていなかった」という点については、家康が出陣したのは大垣城にいる三成らを攻めるためだということを、白峰氏によって指摘されています。白峰氏の「新視点 関ヶ原合戦」(平凡社)の中で、徳川譜代の家臣の保科正光書状を検討することによって、徳川方の保科が大垣城攻防戦についてどういうふうに戦況を認識していたか、どういう戦局シミュレーションを描いていたかが明らかにされています。そのことについては、拙ブログで前述しましたが、注目すべきは「大垣城のような小城に2万人程が籠城すると、すぐにいっぱいになる」と保科が認識している点です。これは三成方軍勢が、関ヶ原の戦いの前夜になぜ大垣城を出て、関ヶ原方面に移動したのかという疑問を解き明かすことにつながる気がします。しかも、最近、関ヶ原方面の赤色立体図の分析から、山中エリアに巨大な玉城跡が発見されましたから、三成方軍勢は、家康の到着を知った段階で小城の大垣城を捨てて、山中の巨大な玉城に入ることによって、態勢を整えようとしたのかもしれません。そうだとしたら、三成方は以前から山中エリアで戦うことも選択肢の一つとして考えに入れていたということになります。岐阜城が落とされて、大垣城が三成方の唯一の拠点になった時点で、玉城に移動することも考えたのではないでしょうか。玉城を要塞にしようとして、そのための工事を始めたのは、それより以前だったはずです。

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