石田三成の実像3000 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」25 惣右衛門が使用した武器は鑓、刀・兵科別編成の軍勢

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、「本城惣右衛門覚書」から得られる知見について提示されていますが、そのうち使用した武器について次のように記されています(前半部分)。
「本城惣右衛門が使用した武器は鑓、刀であったことがわかる。鑓は攻城戦で使用し、本能寺の変では刀を使用しているが、本能寺の変では本城惣右衛門は屋内(本能寺)で戦っているので、鑓ではなく刀を使用したのであろう。
 『惣右衛門覚書』において、本城惣右衛門が鉄炮を使用したという記載はない。これは鉄炮使用がだれでもおこなえるものではなく、鉄炮衆のように鉄炮使用に特化された階層(集団)が使用するものであったことをうかがわせる。その証左として、『惣右衛門覚書』では、金山城攻め(天正6~同7年)で明智方の『てぽうの物』(=鉄炮の者)の首取りをした、という記載があることから、この時点(天正6~同7年)で明智光秀の軍勢は兵科別編成がおこなわれていて、鉄炮の者(=戦いにおいて鉄炮を専門的に扱い使用する者)が存在していたことがわかる」と。
 兵科別編成がいつ頃から行われていたかよくわかりませんが、鉄砲隊が活躍したとされる長篠の戦いあたりからでしょうか。「惣右衛門覚書」から、光秀による丹波攻めの際は、兵科別編成が行われていたことがわかり、秀吉の中国攻めをはじめとする信長家臣の各方面隊も、同じように兵科別編成が行われていたものと推定されます。
 いわゆる関ヶ原合戦の際も、兵科別編成が行われた軍勢同士の戦いであったと思われます。この戦いの具体的状況について、白峰氏の「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)の中で、一次史料などに基づいて詳しく論じられています。この戦いに家康方として戦った生駒利豊の書状の記載内容から、次のような点が指摘されています(一部)。
 「関ヶ原合戦は、福島隊と宇喜多隊の鉄砲の撃ち合いで始まった。それから白兵戦になった。
 ※白兵戦とは『刀・剣・槍などの白兵を手にして行う戦い。至近距離での戦闘』(『大辞泉』)である」
 「白兵戦では鑓や刀を使用した。使用方法は、刀では斬りかかり、鑓は突いた」などと。
 またこの戦いでやはり徳川方で戦った細川忠隆の軍勢の「首注文」(敵方の首を討ち取った細川家の家臣名と首数などを記したもの)に関する史料から、「討ち取った敵の首数は鉄砲衆が最も少なかったが、このことは、鉄砲衆は射撃専門の兵種(兵科)部隊であり、白兵戦で敵を狙撃した上で首を取ったケースが少なかったということなのかもしれない」と指摘されています。
 また細川家の「備え」(細川家家臣によって編成されたそれぞれの戦闘ユニット」についても考察されていますが、「兵種別・職制別の衆の『備え』、細川家の一族衆の『備え』、細川家の重臣衆の『備え』というように大きく三つのグループに分けられる」ことも指摘されています。 

 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント