大阪探訪47 番組「ニッポン不滅の名城 『大坂城』」1 秀吉時代の大坂城のメインストリートは大手前高校グラウンドの北側の道・城の東側の石垣が高い理由

秀吉時代の大坂城の天守は、今の大阪城の天守閣の北東に建てられていました。NHKの番組「絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城 『大阪城』」で、そのことに触れられていましたが、その際、「ブラタモリ」で有名になった京都高低差崖会崖長の梅林秀行氏が、大阪府立大手前高校のグラウンドの北側の道に立って、この道が豊臣時代の城下町のメインストリートであり、そこから当時の天守がメインストリートの真正面に見えていたと説明されていました(今は天守閣は真正面ではなく、少し南側に位置しています)。それは、パリのシャンゼリゼ通りの突き当たりに凱旋門が建っているのと同じようなビスタという町作りで、遠近感や立体感を生み出し、より一層壮大な演出が加わっており、城はシンボルであったと。このメインストリートだった道を西に進むと、北浜や中之島に通じ、当時の大坂の町は城の西側に向かって拡大していったということも述べられていました。
 DSCN8524.JPG 写真は梅林氏が建っていたのと同じような場所から撮ったものです。昨年1月に久しぶりに大手前高校を訪ねた際のものですが、勤務していた時は毎日通っていた道です(その時より歩道は広くなり、生徒も通りやすくなりましたが)。この道が豊臣時代はメインストリートだったというのは今回、初めて知りました。
 この番組で、城の東側の石垣が高さ32メートルもある(日本一の高石垣)理由については、大阪城天守閣学芸員の跡部信氏が説明されていました。今残っている石垣はすべて、大坂の陣の後、徳川秀忠が築いたもの(秀吉時代の石垣は地中に埋もれています)ですが、秀吉時代の天守が東北の位置にあり一番高い場所になっていたため(秀吉時代の石垣は三段のひな壇状になっていました)、秀吉の大坂城の本丸を完全に埋めて徳川の大坂城を築くには、それだけの高さの石垣が必要だったと。確かに、東側の高石垣は見応えがあります。
DSCN8735.JPGDSCN8733.JPG 内堀をはさんで西に高石垣、東側に今は梅林がありますが、このあたりは豊臣時代は片桐且元の屋敷(市正曲輪)がありました。写真は3年前の3月に撮ったものです。
 

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