石田三成の実像3003 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」26 伏見城攻めの際も兵科別編成・白峰氏「江上八院の戦い(慶長5年10月20日)における鍋島家の頸帳に関する考察」 この戦いでも兵科別編成

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、「本城惣右衛門覚書」から得られる知見について提示されていますが、そのうち使用した武器に関する記載について、慶長5年の伏見城攻めの記載から、次のような点が指摘されています。
「攻囲側に『たいこさま御てっぽう衆』(=太閤様御鉄炮衆)が含まれていた、という記載がある。この点は、慶長5年の時点で豊臣公儀
の直属の軍勢(豊臣秀頼直属の軍勢)において兵科別編成がされていたことを示す証左である。そして、太閤様御鉄炮衆が伏見城を攻囲した軍勢に含まれていたことは、伏見城を攻囲した軍勢が豊臣公儀の軍勢であったことを示している」と。
 よく北政所や淀殿は、三成や毛利らに距離を置いていたというふうに捉えられがちですが、「太閤様御鉄炮衆」が伏見攻めに加わっていたことから見ても、豊臣公儀として認めていたことがわかります。それは、大津城の開城交渉に、北政所も淀殿も使者を送っていること、関ヶ原の戦いの敗戦を知って北政所が御所に逃げ込んでいるということなどからもわかります。淀殿が、三成らに資金提供をしなかったことも事実かどうか、一次史料をよく検討する必要があるように思います。
 伏見城を落とした豊臣公儀側の軍勢が、この後、伊勢方面軍や美濃方面軍として展開していくわけですから、兵科別編成はこの後、関ヶ原の戦いまで継続したものと思われますし、実際、前述したように、関ヶ原の戦いについても兵科別編成が行われていたことは、白峰氏が一次史料の検討によって指摘されています。
 白峰氏の「江上八院の戦い(慶長5年10月20日)における鍋島家の頸帳に関する考察(その1)」(『別府大学紀要』第60号所載)の中で、「高麗陣成富茂安組着到」(天正21年)に記載されている、鍋島勢の先手であった成富茂安の兵科別編成から、関ヶ原の戦いの後、九州で起こった江上八院の戦いにおける鍋島勢先手の兵科別編成について考察され、次のように記されています。
 「文禄の役で鍋島家軍勢の先手であった成富茂安組の兵科別編成において、四兵科(鉄炮、鑓、弓[半弓も含む]、のぼり)が揃っていることと、弓鉄炮衆、弓衆、鉄炮衆のような専科部隊が存在していたことからすると、江上八院の戦いにおいても鍋島家軍勢の先手では同様に四兵科が存在し(騎馬を加えて五兵科になっていた可能性もある)、弓鉄炮衆、弓衆、鉄炮衆のような専科部隊も存在した、と考えられる」と。
 鍋島勢は関ヶ原の戦いには直接参加していませんが、その直前の伏見城攻め、伊勢の津城攻めなどには加わっており、その時も兵科別編成が行われていたものと推定されます。
 
 
 

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