石田三成の実像3007 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」39 本間宏氏「上杉景勝の戦い」19 伊達に奪われた白石攻撃 佐藤貴治氏「伊達政宗の戦い」1 家康の伊達への百万石お墨付は空手形ではなかったとする佐藤氏の見解

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長5年8月23・24日の直江兼続の動きについて、次のように記されています。
「8月23日、景勝は伊達政宗に奪われた白石方面を攻撃するため、援軍を派遣した。兼続は前線に在陣する直属の家臣に宛てて、信達地方(信夫郡と伊達郡)の軍勢を総動員して攻撃するよう指示している。翌24日には、実際に刈田郡南端の『小須郷』(越河)で戦闘があったようである(『大津久親功名覚』【大日本史料 第12編之50】)。この軍事行動は、伊達政宗を脅迫するための布石であった」と。
 伊達政宗が白石城を開城させたのは、7月25日のことですが、その後の政宗の動きについて、佐藤貴治氏の「伊達政宗の戦い」の中で、次のように記されています。
 「政宗は8月14日に北目城に帰還した。これは家康が上洛するため家康自身が会津攻めへ向かうのを止めたからである。こうして政宗と景勝の争いは膠着状態に入る」と。
 北目城については、佐藤氏の同書に、「北目城は、当時の政宗の本拠地である岩出山城から50キロほど南にあり、上杉氏の白石城までは35キロほどのところにある。つまり、北目城は、当時の伊達領国の前線に比較的近い場所であった」と記されています。
 この時、政宗が奪い取った白石城のある刈田郡は、関ヶ原の戦いの後、家康によって政宗の所領と認められました。このことは、家康が8月22日に家康が政宗に与えることを約束した、いわゆる百万石のお墨付は空手形ではなかったことの証左だと、佐藤氏の同書で指摘されています。すなわち、「この約束には戦国期以来の社会的習慣である『自力次第』という前提があったとみられる。つまり、政宗が自身の力によってこれら七カ所の領地を奪い取ることができた場合は、家康がその領有権を認めるというもので、逆にいえば、政宗が自力で七カ所の領地を奪えない場合は、百万石は保証されないのである」と。
 この見解には一理ありますが、白峰旬氏によれば、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」が出されたことよって、家康の公儀性は失われ、二大老・四奉行による新しい豊臣公儀体制ができあがったと指摘されており、この時点では、家康に知行宛行権はなかったわけです。そうであれば、家康が書状で所領を与えると記しても、それは所詮、空手形に過ぎなかったということになります。家康が豊臣公儀の大老に復帰したのは、関ヶ原の戦いに勝利し、大坂城に戻ってからであり、その資格で戦後の論功行賞を行うことができたというわけです。
 
 
 
 
 

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