石田三成の実像3008 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」40 本間宏氏「上杉景勝の戦い」20 旧宇都宮領での一揆を画策 付記 宇都宮家改易の際、佐竹家は三成の取りなしによって存続 宇都宮国綱・結城朝勝の弟の芳賀高武は三成の家臣に

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長5年8月28日に二本松城に入った直江兼続の動きについて、次のように記されています。
「兼続は、伊達氏、最上氏平定後の関東出兵に備え、旧宇都宮氏領における一揆の下工作を進めるように結城朝勝に指示した。結城朝勝は宇都宮広綱の次男で、結城家に入嗣したが、のちに秀康(家康の次男で秀吉の養子)が家督を継ぐこととなり、廃嫡となっていた。慶長2年の宇都宮改易以降は佐竹氏のもとにあったが、慶長5年7月から上杉景勝に仕え白河に入城していた。景勝は宇都宮家再興を示唆しつつ朝勝を調略し、佐竹氏との同盟締結と宇都宮一揆を画策したのであろう」と。
 結城朝勝の兄が宇都宮国綱で、国綱は宇都宮家を継ぎましたが、慶長2年10月に改易されています。宇都宮家の改易の原因については、諸説がありますが、宇都宮家と姻戚関係にあった佐竹家(国綱の母は、佐竹義宣の祖父である義昭の娘でした)も改易されそうになったものの、三成の取りなしによって佐竹家の処分は免れました。そこには、三成と佐竹義宣の親密な関係も影響しているものと思われます。このことについて、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、宇都宮家改易と佐竹家存続を告げる同年10月7日付の佐竹義重宛佐竹義宣書状が取り上げられていますが、その中に次のような一節があります。
 「我が佐竹家の身上についても、上様(秀吉)から何らかの命が下されることを恐れていましたが、石田三成(治部)が意を尽くして(秀吉に)事情をご説明になり、(何とか大名としての)身上が続くこととなり、(とりあえず)満足しております」などと。
 さらに「三成は殊更に慎重な対応を求めており、改易に伴う宇都宮家の荷物が『一駄』たりとも、佐竹領内を通過することのないように厳命している」ことも中野氏の同書に記されています。
 関ヶ原大乱の際、朝勝は佐竹氏と同盟し、旧宇都宮領に一揆を画策することによって、二大老・四奉行体制の新たな豊臣公儀側に立ったわけですが、朝勝がそういう選択をしたのは、佐竹氏に身を寄せていたためだと思われます。さらに、朝勝の弟の芳賀高武は、宇都宮氏の家臣の芳賀高継の養嗣子になっていましたが、宇都宮氏改易の後、お家再興のため、関ヶ原大乱の前年に三成の家臣になっています。これは栃木県立博物館の調査によって明らかになったことです。芳賀高武が、関ヶ原の戦いに参加したかどうかは、今のところ史料では確かめられないものの、三成に仕えた経緯から、参加した可能性は高いということです。改易された宇都宮国綱は、慶長の役の際、渡海しますが、お家再興を目指したものであり、その背景には三成や増田長盛の配慮があったのではないかと中野等氏が指摘されています。それはともかく、朝勝・芳賀高武兄弟は関ヶ原大乱の際、豊臣公儀側につき、兄の国綱は逆に家康側についたものの、兄弟が豊臣公儀側だったのが災いしたためか、戦後、家康のもとでも結局、宇都宮家の再興はかないませんでした。

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