石田三成の実像2999 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」36 本間宏氏「上杉景勝の戦い」16 兼続は福島へ移動し伊達氏への対応を指示・付記 三成と兼続の書状のやりとり

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、家康軍が撤退したと兼続が知った前後のことについて、次のように記されています。
「兼続は安子ヶ島在陣中に本庄繁長と面談し、以後の方策を協議したようである(『本庄氏記録』)。そして8月8日には米沢への伝馬を手配し、自身は安子ヶ島から福島へと移動した。さらに若松からの援軍を得た簗川城将や、前線に布陣していたと推測される家臣たちに、伊達氏への対策を指示している」と。
 この頃には、兼続は家康軍が撤退したことを知ったと思われます。安子ヶ島については、本間氏の同書の中で「若松城、二本松城、長沼城、守山城と連携しつつ、信夫口、白河口双方を指揮できる場所であった」と指摘されています。本庄繁長はこの時、守山城の城代を務めていました。この後、兼続は8月14日に若松城に戻りますが、家康の上杉攻めがひとまず回避されたためでしょう。
 ちなみに、本庄繁長の三男の長房は文禄2年に兼続の養子となりますが、その翌年に兼続とお船の方との間に景明が生まれたため、本庄家に戻っています。
 三成は7月14日付で兼続に書状を送っていますが、桐野作人氏の「兼続と三成ー立場の違いを超えた共闘」(新・歴史群像シリーズ 『直江兼続』所載)の中でも、推定されていることですが、7月30日及び8月5日に兼続に書状を送っています。その推定の根拠は、三成が7月30日付で真田昌幸に宛てた書状、及び8月5日付で真田昌幸・信幸・信繁に宛てた書状の文言です。前者の書状の文言は、拙ブログでも取り上げましたが、第11条の次のような内容です。
 「こちらから三人の使者を使わします。このうちの一人はあなたからの返事次第に案内者を添えられて、こちらの方に返して下さい。残り二人は会津への書状を持たせてありますので、あなたの方から案内者一人添えていただいて、沼田経由で会津に派遣して下さい。あなたの在所まで返事を持ってきましたら、またあなたの方より案内者を一人添えていただいて、こちらに届くのを待っています」(笹本正治氏「真田氏三代」)と。
 後者の書状については、その第1条に記されている、「この飛脚を会津へ通してほしい」という内容のものです。
 7月14日付の兼続宛三成書状の中で、6月29日付の兼続書状が届いたことが記されているので、書状が届くまで半月ほどかかっていることになりますから、7月14日の書状が兼続のもとに届いたのは、7月末か8月初めのことだと考えられます。豊臣三奉行が発した7月17日付の「内府ちかひの条々」が届いたのは、8月3日のことですから、三成の書状の到来もその前後のことだと思われます。
 7月30日付の兼続宛三成書状には、上方のもっと詳しい状況が記されていたはずですが、その書状が届いたのは、恐らく8月中旬頃のことではないでしょうか。上方の情勢があまり入って来ないだけに、兼続も独自の判断で動かざるをえなかったものと思われます。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 9

驚いた
面白い 面白い 面白い 面白い
ナイス ナイス
かわいい かわいい

この記事へのコメント