石田三成の実像3036 大阪探訪58 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006年)8 細川屋敷の台所にあったとされる「越中井」とガラシャ夫人の辞世の歌の碑・三成が人質に取ろうとしていたという作られた話

 2006年に行なった大手前高校の「集中セミナー」の、「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡めぐり」ですが、大阪カテドラル聖マリア大聖堂を見た後、最後にその近くにある「越中井」まで生徒たちを案内しました。「越中井」は、秀吉時代、大坂の細川屋敷の台所にあったとされる井戸です。そのそばに建っている説明掲示板には、関ヶ原の戦いの二ヶ月前、細川ガラシャ夫人が自害した経緯が記されていますが、その説明掲示板には、ガラシャ夫人を人質に取ろうとしたのは石田三成と書かれており、屋敷を取り込んだのも三成の軍勢と書かれています。ガラシャ夫人の侍女であった霜女の後年の聞き取り書きである「霜女覚書」でも、石田三成が人質に取ろうとしたという記述になっているのですが、江戸時代は、関ヶ原の戦いは「石田の乱」と呼ばれて、三成は家康に刃向かった逆賊扱いでしたから、すべての責任は三成にかぶせられていたため、ガラシャ夫人の自害にも三成が深く関与したという記述になっていると私は考えています。「越中井」の説明掲示板の記述も、「霜女覚書」や江戸時代に編纂された細川家の史料に基づいているものと思われます。繰り返しになりますが、ガラシャ夫人が自害した7月17日には、三成はまだ大坂城に来ていず、佐和山城にいました。
 IMGP5314.JPGIMGP5316.JPGIMGP5318.JPG 写真は「越中井」と、そこに建っているガラシャ夫人の辞世の歌の碑です。辞世の歌は「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」です。
 「越中井」で関ヶ原の戦い、大坂の陣のまとめの話をしてここで解散しましたが、関ヶ原の戦いについては、通説に基づいた戦いの経緯(白峰旬氏などの新説が出る以前のことです)や三成らの最期、大坂の陣では豊臣家が滅亡し落城した後、秀吉時代の大坂城の石垣などは埋め立てられ徳川氏によって新たな大坂城が再建されたこと、歴史は勝者によって作られることなどを話しました。大阪にはこれらの関連遺跡が他にもいろいろとあるので、これからも興味関心を持って、訪ねてほしいというような話もしました。大阪城が目の前にある、かつて三の丸があった地に建つ高校ですから、生徒たちも約400年前に起こった戦いについて、少しは身近に感じてくれたようでした。

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