石田三成の実像3029 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」49 本間宏氏「上杉景勝の戦い」27 景勝にとって、この戦いは何だったのか

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、上杉景勝にとって、慶長5年から6年にかけての戦いとは何だったのかについて、次のように記されています。
 「徳川家康も、他の大老・奉行衆連合軍も、豊臣政権の秩序を守るという大義名分を標榜していた。つまり『関ヶ原』とは、豊臣政権内における徳川家康の権力増強を認めるか否かという戦いであり、領地を奪い合う戦国期の戦いとはまったく性質を異にする『政争』だったのである。全国の諸大名は家名存続のため、徳川方と他の大老・奉行方のいずれに帰属すべきか選択せざるをえなかった。この戦いを大過なく切り抜けるためには、正確な情報を迅速に入手し、時には二股外交も展開しながら『勝ち馬』を見定める必要があったのである。この点を考慮せずに、各地で展開された軍事行動の意味を評価してはならない。
 しかし、豊臣政権への反逆を問われた上杉景勝には、反逆の意思がないことを示す以外の選択肢が存在しなかった。『内府ちがひの条々』により復権を遂げた景勝は、北奥羽、越後、常陸への政治工作を強め、伊達、最上両氏を屈服させたうえで徳川家康に圧力を掛け、豊臣政権から託された役割を果たすことを意図したのである。しかし、これを果たせないまま終戦を迎えることとなった」と。
 関ヶ原大乱は、「徳川家康の権力増強を認めるか否かという戦いであ」ったというのは確かにその通りですが、白峰氏の見解によれば、「内府ちがひの条々」が出た時点で、家康の公儀性は失われ、二大老・四奉行による新たな豊臣公儀体制が整いましたから、一種のクーデターが起こったわけです。家康に味方した武将達は「内府ちがひの条々」を認めていなかったのかもしれませんが、客観的に見れば、家康の豊臣家大老としての資格は失われたと考えると見るのが妥当ではないでしょうか。
 「徳川方と他の大老・奉行方のいずれに帰属すべきか選択せざるをえなかった」という捉え方もその通りだと思いますが、「領地を奪い合う戦国期の戦いとはまったく性質を異にする」という見方には少し異論があります。関ヶ原大乱を機に、「惣無事令」は崩壊し、私戦が復活した形ですし、毛利輝元は西国各地の侵略を始め、伊達政宗も旧領回復の戦いをし、黒田如水も九州で活発な動きを見せますから、切り取り次第という戦国期の論理が復活した形です。
 上杉景勝は、家康に喧嘩を売られた格好で、それに応じるしかなかったというのが現状でした。家康は上杉攻めを口実に軍事指揮権を発動し、上杉氏をターゲットにして屈服させようとしたものと思われます。その上杉氏を二大老・四奉行による新たな豊臣公儀側が助けたわけですが、上杉氏はそれに応えようと最上攻めを始めました。上杉氏にとって誤算だったのは、関ヶ原の戦いが思いのほか早く決着がついてしまったことでした。
 

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