石田三成の実像3030 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」7 「石田三成書状展」1 文禄5年7月12日付の佐藤貞信宛三成書状 親密さがうかがえるお礼の書状

 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」の際に、合わせて「石田三成書状展」が開かれていましたが、展示されていたのは、中井俊一郎氏が講演会で取り上げられていた、二通の天正19年(1591)10月8日付の佐藤貞信宛三成書状だけでなく、文禄5年(1595)7月12日付の佐藤貞信宛三成書状もありました。
 その書状について、図録には次のように解説されていました。
 「内容は、今度の所領替えで貞信の知行分が確保されたことと、そのお礼として金1枚をもらったことに対するお礼である。
 三成は秀吉政権下で諸大名を統率する際に、領主だけでなく、その下で実務を担う重臣との関係を重視しているが、佐藤貞信との親密な関係もその一環と理解できる。
 岩城氏は、中世期は岩城平(現・福島県いわき市)を中心に勢力をもった領主であるが、この頃になると、岩城家当主である貞隆(能化丸)と佐竹家当主である義宣が実の兄弟であった関係もあり、豊臣政権下において、両家はほぼ一体となって活動していた。
 岩城・佐竹両家の一体化を推し進めたのは三成であり、佐藤貞信は元は佐竹家家臣であったが、貞隆とともに岩城家に移り、その補佐役を行っていた人物と推測される」と。
 三成が「岩城・佐竹両家の一体化を推し進めた」のは、両家の基盤を確かなものにして、豊臣大名化を図ると共に、東北の安定化を目指し、具体的には伊達政宗を牽制しようと考えたからではないでしょうか。うがった見方をすれば、蒲生氏郷や徳川家康に対する監視の意味もあったかもしれません。
 三成が「領主だけでなく、その下で実務を担う重臣との関係を重視している」という点では、上杉家における直江兼続、島津家における伊集院忠棟などが挙げられます。堺屋太一氏は関ヶ原という巨大プロジェクトを企てた三成を評価されていますが、その一つとして実務者同士が協議したことが挙げられ、具体的には直江兼続や宇喜多家の明石掃部との結びつきを指摘されています。もっとも、明石掃部について、大西泰正氏は明石掃部は宇喜多秀家の重臣ではなく、宇喜多騒動までは客分扱いだったと指摘されていますが、宇喜多騒動で、重臣たちが宇喜多家から去った後、重臣に代わって重要な役割を果たし、「人材不足を埋めるため、上方で知名の侍多数を宇喜多氏家中に召し抱える」(大西氏『シリーズ実像に迫る 宇喜多秀家』)ことなどをしています。
 佐藤貞信宛三成書状としては、今回の書状展には展示されていませんでしたが、文禄2年5月6日付のものもあります。貞信から朝鮮にいる三成にお見舞いの手紙を差し出したのに対するお礼の書状です。明から停戦要請があり、戦いは終了したので、釜山まで戻ってきたこと、まもなく帰国することなども記されており、この書状からも親密な関係であったことがよくわかります。

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