石田三成の実像3027 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」48 菅原義勝氏「最上義光の戦い」6 義姫(保春院)…

 伊達政宗の母は、最上義光の妹の義姫(保春院)ですが、以前は、義姫が政宗を毒殺して、政宗の弟の小次郎を跡継ぎにしようとしたが、失敗し小次郎は政宗によって殺されたというふうに思われてきましたし、大河ドラマ「独眼竜政宗」でもそのように描かれていました。ところが、このことについて、白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、菅原義勝…
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千田嘉博氏「お城探訪 小牧山城」 信長は小牧山城からの上洛を計画・天下も視野に入れた信長の特別な城・帯曲輪に玉石敷き

 朝日新聞に連載中の千田嘉博氏の「お城探訪」の「小牧山城」で、信長は小牧山城主だった永禄9年(1566)に、足利義昭のお供をして上洛する予定だったことが述べられていました。信長が斎藤氏から美濃の岐阜城を奪取して新たな居城とする前年のことで、実際に信長が義昭を助けて上洛したのは永禄11年のことです。永禄9年に、信長は小牧山城から美濃を避け…
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石田三成の実像3026 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」6 中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解…

 中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解くー奥羽の石田三成ー」の中で、10月8日付の佐藤貞信宛三成書状について、まとめとして「当時、奥州情勢はまだ落ち着いていない」、「岩城家中は貞隆への権力移行が完了しておらず、親佐竹派とそれ以外の勢力で緊張感が続いていた」、「伊達仕置も最終段階に入っており、岩城家を佐竹側・豊臣政権側へしっかり組み入れ…
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映画探訪40 ヒッチコックの「ロープ」も「チャップリンの殺人狂時代」もドストエフスキーの「罪と罰」を彷彿とさせる内…

 ヒッチコックの映画「ロープ」を見ましたが、いきなり2人の男が友人をロープで絞め殺すという衝撃的な場面で始まります。その遺体を衣装箱の中に隠して、その上に燭台や料理を置いてパーティーを催すという展開になりますが、主犯の男は、自分は優れているから人を殺す権利があると思い込んでいるという恐ろしい人物として設定されています。この映画を見て、ド…
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石田三成の実像3025 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」47 菅原義勝氏「最上義光の戦い」5 諸城の奪還後、…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、菅原義勝氏の「最上義光の戦い」の中で、上杉勢が撤退した後の最上義光の動きについて、次のように記されています。  「義光は直江軍の追撃を行うとともに、上杉方によって占領されていた諸城の奪還を図っている。白岩、寒河江、左沢からは、10月1日時点で何人もの敵兵を討ち果たしたという報告が…
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「魏志倭人伝」の記述は、情報操作されていたという渡邉義浩氏の説(番組「邪馬台国サミット2021」)・われわれが知っ…

 NHKの番組「邪馬台国サミット2021」の中で、「魏志倭人伝」の記述は、情報操作されていたという渡邉義浩氏の説が紹介されていましたが、興味を惹かれました。その記述通りに行くと、邪馬台国は九州よりはるか南の海にあるということになるのですが、魏の国は、対立していた呉の国を牽制する存在として邪馬台国を考えており、実際よりもずっと南にあるよう…
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石田三成の実像3024 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」5 中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解…

 中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解くー奥羽の石田三成ー」の中で、10月8日付の佐藤貞信宛三成書状の謎を解く手かがりとして、10月9日付の四倉下野守(佐竹家重臣)宛白土隆良(岩城家重臣)書状が取り上げられています。この書状は従来、天正18年のものと考えられてきましたが、内容から見て、天正19年のものだと中井氏は指摘されています。そう…
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石田三成の実像3023 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」46 本間宏氏「上杉景勝の戦い」26 佐藤貴治氏「伊…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、「9月晦日、関ヶ原での大勝を伝える家康書状が政宗に届いた」と記されています。そうだとすれば、伊達政宗が上杉側より早く関ヶ原の戦いの結果を知ったことになります。しかし、これはある意味、当然のことであり、勝者はいち早く知らせを仲間に届ける傾向にあるの…
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大手前高校の演劇鑑賞にわらび座の「アテルイ-北の燿星」(2011年)歪曲されてきた東北の英雄の復権・迫力も見応えも…

 東北大震災が起こった年の10月に、大手前高校の文化行事として、秋田県仙北市に拠点を置くわらび座のミュージカルの演劇「アテルイ-北の燿星」を門真市民文化会館ルミエールホールで鑑賞しました。当時、図書部長としてこの行事に関わったのですが、保護者向けの案内に、演劇の内容及び鑑賞する意義について、簡単に次のように記しました。  「平安時代、…
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石田三成の実像3022 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」4 中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解…

 中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解くー奥羽の石田三成ー」の中で、天正19年10月8日付の佐藤貞信宛三成書状の謎として、次のような点が挙げられていました。  まず「鉄砲隊の同行を要請している」ことについて、まだ「不穏な状況だったのか」、「奥州情勢はまだ緊迫していたのか」「岩城家中の状況はどうだったのか」という疑問点が挙げられていま…
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石田三成の実像3021 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」45 兼続に関ヶ原の戦いの報が入ったのはいつ? 菅原…

 最上攻めをしていた直江兼続のもとに、関ヶ原の戦いの報が入ったのはいつのことでしょうか。  白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、菅原義勝氏の「最上義光の戦い」の中で、「(9月)29日、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたとの報が兼続のもとへ届けられた」と記されています。  一方、この点について、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の…
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石田三成の実像3020 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」3 中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解…

 「三成の戦 拾」のイベントとして行われた、オンライン三成会代表の中井俊一郎氏の講演会「三成書状を読み解くー奥羽の石田三成ー」で取り上げられていた三成書状は、天正19年(1591)10月8日付と推定される、岩城家重臣の佐藤貞信に宛てた2通の書状です。  その時、三成は三春(福島県三春町)におり、2日後に岩城平(福島県いわき市)にいる貞…
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石田三成の実像3019 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、大坂夏の陣で再会した荻野河内について考察されていますが、その続きで、次のように記されています。  「『惣右衛門覚書』には、本城惣右衛門が荻野河内という人物と大坂の陣で再会して、昔の首取りの話を語り合う場面が記…
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旅行記247 石田三成の実像3018 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」2 三成書状の所蔵者の方と出…

南彦根のホテルは朝食付きでしたが、バイキング(ビュッフェ) 形式で、手を消毒した上、料理を取る時はマスクを着用してビニールの手袋をしなければならず、食べる時だけマスクを外せました。席も離してありましたし、感染防止対策はよくされていると思いました。  チェックアウト後、平和堂で買物をしてから、荷物を南彦根駅のロッカーに預け、またひ…
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石田三成の実像3017 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」44 菅原義勝氏「最上義光の戦い」3 長谷堂合戦の概…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、菅原義勝氏の「最上義光の戦い」の中で、関ヶ原の戦いと同日の9月15日に開始された、上杉軍と最上軍の間の長谷堂合戦について、次のように記されています。  「長谷堂城には志村光安が立て籠もっていた。直江軍の上泉泰綱は、長谷堂城を守る志村勢の様子を次のように述べている。『鉄砲を主とした布…
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旅行記246 石田三成の実像3016 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」1 1年ぶりの宿泊・初日は演…

  南彦根のホテルに一泊し、3月13日、14日にひこね市文化プラザで行われた、「三成の戦 九」「三成の戦 拾」を見に行ってきました。一年ぶりの宿泊です。  昼前に南彦根駅に着き、まず駅近くのホテルに荷物を預けました。昼食はコンビニで幕の内弁当を買って、駅のベンチで食べました。今回はコロナのこともあって、飲食店で食事をすることは一回もあ…
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石田三成の実像3015 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、「本城惣右衛門覚書」に記載されている荻野河内という人物について考察されています。  まず同「覚書」には、「本城惣右衛門が荻野河内という人物と大坂の陣で再会して、昔の首取りの話を語り合う場面が記されている」、「…
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石田三成の実像3014 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」43 本間宏氏「上杉景勝の戦い」23 菅原義勝氏の「…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長5年9月に始まった直江兼続による最上攻めの経緯について、次のように記されています。 「最上義光の時間稼ぎは続いた。兼続は武力行使を決断し、9月8日に米沢城からの先発隊を出陣させた(『清野文書』【上杉家記】)。翌9日には自身も出陣し、9月13…
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大阪探訪57 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006…

 2006年に行なった、大手前高校の「集中セミナー」の、「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡めぐり」ですが、真田信繁(幸村)の銅像と「真田の抜け穴」、旧真田山陸軍墓地を見た後、歩いて大阪カテドラル聖マリア大聖堂まで生徒たちを案内しました。この大聖堂は、秀吉時代、大坂の細川屋敷があったところで、関ヶ原の戦いの二ヶ月前、細川ガラシ…
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石田三成の実像3013 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、指揮を受ける部将が変わったことについて考察されていますが、その続きです。  「天正12年までの戦いでは、本城惣右衛門は出身地の丹波国関係の部将の指揮下で戦っていた。しかし、それ以後、天正13年の紀州討伐では羽…
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大阪探訪56 朝日新聞の「まだまだ勝手に関西遺産」の「大阪発祥『ビー玉』」 語源はポルトガル語かB玉かフランス語か…

  子供の頃、ビー玉でよく遊んでいましたし、集めてもいました。色や模様のきれいな気に入ったビー玉は宝物みたいなもので、住んでいた長屋の突き当たりにある小学校と幼稚園の境の壁にあった隙間を、隠し場所にして入れていたこともあります(写真のあたりですが、今はそういう隙間はありません)。長屋の前や周辺の地面はまだ舗装されていず、土だった時代です…
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石田三成の実像3012 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」42 本間宏氏「上杉景勝の戦い」22 兼続は高圧的な…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長5年9月4日付で直江兼続が記した書状について、次のように記されています。 「9月4日、兼続は若松城の甘糟景継に宛てた返書において、最上氏から『少々懇望の儀』があったので最上領への軍事行動を延期したが、2、3日中には決着するだろうと伝えている…
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大阪探訪55 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006…

 2006年に行なった、大手前高校の「集中セミナー」の、「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡めぐり」ですが、真田信繁(幸村)の銅像と「真田の抜け穴」を少し登ったところにある、旧真田山陸軍墓地にも生徒たちを案内しました。明治時代以後の、兵士たちの墓が5000余り並んでいます。しかも、亡くなった時の階級に応じて、墓の場所が違ってい…
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石田三成の実像3011 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門は通説とは違って下級武士ではなかったと指摘されていますが、その理由として次の点が挙げられています。  「①本能寺の変では、斎藤利三の子息と小姓の2人の騎馬武者から本能寺へ行く指示を受けている、 …
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大阪探訪54 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006…

 2006年に行なった、大手前高校の「集中セミナー」の、「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣関連遺跡めぐり」ですが、地下鉄で玉造駅に出て、真田山の三光神社にある真田信繁(幸村)の銅像とそのそばにある「真田の抜け穴」に案内しました。「真田の抜け穴」は、最近はよくテレビなどで紹介されますが、そういうものがあると知ったのは、これも桂米朝さんの…
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石田三成の実像3010 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」41 本間宏氏「上杉景勝の戦い」21 9月3日に兼続…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長5年9月3日に米沢城に入った直江兼続の動きについて、次のように記されています。 「守山城代であった本庄繁長は、このとき福島城に入っていた。この日、兼続が繁長に与えた条書には、次のようなことが記されている(高嶋 1993)。  ①政宗に奪わ…
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大阪探訪53 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006…

2006年に行なった、大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」ですが、一心寺の北にある清水寺(新清水)にも足を伸ばしました。ここは関連遺跡ではありませんが、生徒たちもほとんどその存在を知らないのではないかと思って案内しました。かく言う私も、桂米朝さんの「米朝ばなし 上方落語地図」(毎日新…
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石田三成の実像3009 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、「本城惣右衛門覚書」から得られる知見について提示されていますが、軍勢数の表記について、次のように指摘されています。  「丹波国内の戦いでは、敵200~300人VS味方50~60人、敵200~300人VS味方1…
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大阪探訪52 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006…

 2006年に行なった、大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」ですが、 一心寺の道路をはさんですぐ北側にある安居神社を訪ねました。真田信繁(幸村)が大坂夏の陣で家康本陣に襲いかかり、一時は家康を追い込む活躍を見せるものの、多勢に無勢で戦死したとされる場所で、生徒にもそのように話しました…
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石田三成の実像3008 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」40 本間宏氏「上杉景勝の戦い」20 旧宇都宮領での…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長5年8月28日に二本松城に入った直江兼続の動きについて、次のように記されています。 「兼続は、伊達氏、最上氏平定後の関東出兵に備え、旧宇都宮氏領における一揆の下工作を進めるように結城朝勝に指示した。結城朝勝は宇都宮広綱の次男で、結城家に入嗣…
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大阪探訪51 大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」(2006…

 2006年に行なった、大手前高校の「集中セミナー」の講座「大阪における関ヶ原の戦いと大坂の陣の関連遺跡を訪ねて」ですが、茶臼山から歩いてすぐの一心寺を訪ねて、境内にある大坂夏の陣で亡くなった本多忠朝(忠勝の次男)の墓にお参りしました。忠朝は大坂冬の陣で酒を飲み過ぎたせいで、不覚を取り、敗走したため、夏の陣では汚名を挽回しようと、攻めか…
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