石田三成の実像3034 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」9 「石田三成書状展」3 豊臣秀吉行状絵伝一巻・演劇、講談での三献茶の描き方

 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」の際に、開かれていた「石田三成書状展」には、書状の他に、「豊臣秀吉行状絵伝一巻」も展示されていました。
 江戸時代後期から明治初期に書かれたと思われるもので、文字通り、秀吉の一代記が描かれた絵巻物です。展示されていたのは、秀吉(日吉丸)が誕生する場面から、信長に見参する場面、桶狭間の戦い、上月城退陣、山崎の戦い、清須会議、賤ヶ岳の戦いまででした。
この絵巻の中に、修行者である安国寺恵瓊が、秀吉(藤吉郎)を見て、将来天下人となることを予言する場面もありましたが、これは恵瓊が書状で信長や秀吉について記していることに基づいています。すなわち、恵瓊は「信長について、3年から5年は繁栄が続であろう」が、「『高ころびにあをのけにころばれ候ずる』と評しているように、足元をすくわれる可能性を示唆している」のに対して、「秀吉を『さりとてハの者』つまり『なかなかの人物』であると高い評価を与えている(渡邊大門氏「戦国の交渉人」)」と。
 この絵巻物の中には、三成が秀吉に仕える場面もありました。三成が秀吉に仕えるきっかけになったとされる、鷹狩りの際に秀吉が立ち寄った寺で、三成が気の利いたお茶の出し方を秀吉にしたという、いわゆる三献茶のエピソードは、江戸時代の書物に出てくる話で、史実かどうか今のところ確かめようがありません。「三成の戦 九」で、乙訓戦国つつじの人々による演劇「義雲~乖離する友鏡」でも、旭堂一海による講談でも、三献茶の話が出ていましたが、違う演出がされていました。
 演劇「義雲」では、三成が秀吉にお茶を差し出す時、お茶の出し方を三成に教えるのは、同じ寺で修行していた大谷吉継という描き方がされていました。三成と吉継の友情を印象づけるための脚色だと思われます。もっとも、三成と吉継が同じ寺の小姓をしていたという事実は確認されていません。三成が仕えた寺にしても、観音寺(三成が生まれ育った石田村の隣村にある寺)と法華寺三珠院(三成の母の故郷にある寺)の二説がありますし、どちらとも断定できません。また吉継の出身は豊後説、近江説があるものの、外岡慎一郎氏はそれらを否定し、青蓮院坊官大谷家だったという見解を示されています。
 一方、講談では、三成自身がお茶の出し方を工夫するという描き方になっていましたが、そのお茶の入れ方に感心した秀吉が三成の出自を訪ねると、先祖は木曽義仲を弓矢で射抜いた石田為久だと述べ、木曽義仲の最期を語り出すという手法が採られていました。このあたりは、軍記物講談の醍醐味と云える場面で、聞き応えがありました。義仲の最期は「平家物語」に基づいた語りになっていました。石田家の系図には、祖先は確かに先祖が石田為久と記されているものの、確かなことではなく、証明されていません。三成の祖父の出自は、北面の武士であった下毛野(しもつけぬ)氏であったと、白川亨氏の「石田三成の生涯」(人物往来社)で指摘されています。
 

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