京都探訪332 西本願寺で1年半ぶりに友人と会う・本願寺内部の対立は、信長の本願寺攻めの時から始まっていた

DSCN0700.JPGDSCN0701.JPGDSCN0702.JPGDSCN0705.JPGDSCN0703.JPG 大学時代からの友人N君(40年前に一緒にフランス旅行をした友)と、1年半ぶりに会いました。彼は福山で寺の住職をしており、西本願寺ブックセンターで経典をまとめて購入するために京都まで出て来たので、西本願寺(写真)で待ち合わせをしました。一緒に昼食を取ったあと、東本願寺に立ち寄ってさらに渉成園を見学し、喫茶店でゆっくり話しました。京都駅で別れましたが、近況を語り合い、久しぶりにいろいろな話が出来て、お互い気分転換になりました。
 彼からは、最近出版した新書「信心の再発見」をいただましたが、私の方は、昨年と今年発行した短歌誌を二号分渡しました。彼は今は短歌は詠んでいませんが、学生時代や私が住吉高校勤務時代に発行した同人誌に、自作短歌などを掲載してもらいました。「信心の再発見」は親鸞が求めつづけた信心について探求した随想集ですが、仏教だけでなく、哲学、文学など内容は多岐にわたっており、教員時代の体験も記されています。この本の内容については、また改めて紹介したいと思います。
 N君は、東本願寺を今の場所に建てたのは、家康が西本願寺から豊国社を見えなくするためだったと説明していましたが、確かに西本願寺を東にずっとたどると豊国社(当時は、今の豊国神社よりはるかに広大な敷地)があり、それを遮る位置に東本願寺があります。
 もっとも、東本願寺を建てたのは家康ですが、本願寺内部の対立は、信長の本願寺攻めの時から始まっていたと太田浩司氏は主張されています。ハト派の顕如上人が信長との講和に応じますが、長男の教如上人はタカ派で、講和に反対し、その後も別行動を取ります。顕如上人の死後、教如上人が跡を継ぐものの、秀吉は教如上人を隠遁させ、弟の准如上人に本願寺を継承させます。秀吉の死後、家康が教如上人に、今の東本願寺の土地を与えます。家康が本願寺の分裂に力を貸したということは云えるかもしれませんが、本願寺内部の対立は信長時代からあったわけです。
 ちなみに、父方の家の宗旨はお西さん(西本願寺)ですが、母方の家の宗旨はお東さん(東本願寺)です。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント