石田三成の実像3032 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」8 「石田三成書状展」2 天正19年6月20日付の豊臣秀吉朱印状 東北の反乱を鎮圧するために大量動員

 彦根でのイベント「三成の戦 九」「三成の戦 拾」の際の「石田三成書状展」に展示されていた、二通の天正19年(1591)10月8日付の佐藤貞信宛三成書状と文禄5年(1595)7月12日付の佐藤貞信宛三成書状ですが、前者の書状が自筆書状であるのに対して、後者の書状は右筆が書いたものです。その大きな違いは、自筆書状は、ひらがなが多用しているのに対して、右筆の書いたものは、専ら漢字を用いているということです。それは他の三成の自筆書状でも同じで、真田信幸宛の私信的な書状もそうです。その点は、秀吉も同様であり、自筆書状は、ひらがなが多用されています。
 「石田三成書状展」では、天正19年6月20日付の豊臣秀吉朱印状も展示されていましたが、この朱印状について、図録には次のように解説されています。
 「大崎葛西一揆や九戸政実の乱(九戸一揆)など、豊臣政権による東北支配に対する反乱を鎮圧するために、東国や東北の大名を動員した『奥州再仕置』の際に発給された。
 内容は軍勢の規律を正すことが書かれている。秀吉が、東北北部の紛争に対して組織的に大名を動員していたことが分かる貴重な史料である。
 この朱印状は、加賀藩前田家の所蔵品を伝える尊経閣文庫に原本が、上杉家文書の中に案文(控え)が伝わっている。また、同日に伊達政宗に発給された秀吉朱印状によると、この軍勢は秀吉の甥である羽柴秀次と徳川家康を大将とし、伊達政宗・蒲生氏郷・佐竹義宣・宇都宮国綱・上杉景勝をはじめ、部隊で構成されており、監視役として石田三成と大谷吉継が派遣されていたことが記されている。朱印状は、このうちのいずれかの大名隊に発給された原本と考えられる。
 秀吉による天下統一最後の戦いに関して、また、豊臣政権が配下の大名の軍勢を掌握していたことを示す貴重な史料である」と。
 中井俊一郎氏の講演会の中で、「奥州再仕置」の際は、14万人が動員され、前年の北条攻めの際の13万8160人を上回る動員数であり、「仕置」は、平定・戦後処理というイメージとは異なり、実際には軍事的動員であり、征伐を伴うものだと指摘されています。
 大崎葛西一揆は、天正18年10月に起こりましたが、三成が奥州に向けて出立したのは、12月16日でした。翌年1月10日に相馬に着き、その後、伊達政宗の黒川(会津若松)に25、26日頃に入っています。政宗が一揆を扇動したのではないかという疑いが生じ、政宗は秀吉の召還に応じ、上京しますが、三成も2月には京に戻っています。
 しかし、奥州で九戸の乱が起こり、秀吉は6月20日付で奥州への派兵を命令します。三成が7月末に岩城に着き、相馬を経て北上しますが、乱は8月上旬に収まります。   
 

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