石田三成の実像3048 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」60 浅野友輔氏「毛利輝元の戦い」11 輝元の大坂城入城前後の秀元の動き

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、浅野友輔氏の「毛利輝元の戦い」の中で、慶長5年7月の輝元の大坂城入城前に、秀元が準備を整えていたことについて、次のように記されています。
 「大坂に帰還し、7月19日に大坂城へと入った輝元だったが、動きが速かったのは大坂に残しておいた秀元だった。輝元の入城前に家康が
押さえていた大坂城西の丸を占拠し、大坂に輝元を迎える準備をしていたのである(『義演准后日記』)。大坂城に入ってからの輝元は静観の構えをとり、秀元、広家、恵瓊らが毛利勢の主力として動き、伊勢(三重県)方面へと東進していく」などと。
 秀元に関する「義演准后日記」の記述というのは、7月18日条のもので、白峰氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」の中に掲載されている「時系列データベース」で、次のように記されています。
 「(以下のことを)伝え聞いた。昨日(7月17日)の夕方、大坂城西の丸へ毛利秀元が(秀頼様の)御守護のために入った、ということである。この中(丸ヵ)は家康の住宅の丸である。
 ※原文の『毛利宰相』について、義演准ー2、202頁の頭注では『毛利輝元』に比定しているが、『毛利輝元』は『毛利中納言』としてあとで出てくるので、この時点で『毛利宰相』というのは毛利秀元を指すと考えられる」と。
 輝元の大坂城入城の日について、「義演准后日記」7月19日条に記載があり、白峰氏の同「時系列データベース」の中で、その内容について、次のように記されています。
 「毛利輝元が6万(の軍勢)にて大坂城へ籠った、ということである。
 ※毛利輝元の軍勢数(6万)がわかる点、大坂城へ籠ったとしている点に注意すること」と。
 「真田家文書」の中に、8月5日時点における輝元・三成ら二大老・四奉行による新たな豊臣政権の軍勢の諸将と動員人数が記されていますが、白峰氏の「新『関ヶ原合戦』論」(新人物ブックス)にその表が掲載されています。それによると、毛利勢として「大坂城留守居」に、輝元が1万人、「伊勢口」に輝元が4万1500人と記されています。この「4万1500人」には、ただし書きが付いており、「このうち、1万人は子の藤七郎殿(=毛利秀就)に付け置く。(残りの)3万人余は毛利輝元自身が召し連れて出馬」と記されているものの、白峰氏は秀就の1万人は「秀元の1万人と読み替えるべきであろう」、輝元の出馬については、「実現しなかったものの、8月上旬の時点ではこうした予定はあったということであろう」と指摘されています。
 その両方の軍勢を合わせると5万1500人となり、「義演准后」の6万人という記載とは少し開きがありますが、全くの間違いとも云えず、おおよその人数ということでは誤差の範囲かもしれません。

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