石田三成の実像3083 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」95 大西泰正氏「宇喜多秀家の戦い」15 伏見に秀家が出頭するまでの経緯・助命されて八丈島に流されるまで

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、大西泰正氏の「宇喜多秀家の戦い」の中で、薩摩に匿われていた秀家のその後について、次のように記されています。
 「慶長8年8月、伏見に出頭した秀家は、翌9月、島津氏や秀家本人の運動などが奏功して助命され、駿河久能(静岡県駿河区)に移送された(久能はしかし不便なので、実際には府中の駿府城に移されたという。『旧記雑録後編』ほか)。だが、何らかの事情があって、さらに慶長11年4月に至って八丈島に流された。二人の息子(孫九郎と小平次)のほか共連れは村田助六ら10人である」と。
 秀家が伏見に出頭するまでの事情については、大西氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光洋出版)の中で、次のように記されています。
 「慶長7年、徳川方との講和のために忠恒が上洛、島津氏の本領安堵が決まり、ほぼ同時に秀家の助命交渉が始まった。徳川方への出頭は、秀家自身の意志という伝承もあるが定かではない(『難波経之旧記』等)。『当代記』は12月下旬、忠恒が伏見の徳川家康に秀家の亡命を伝えたといい、『島津家譜』は翌年正月、忠恒が旗本山口直友(徳川方と島津氏との取次役)に秀家を助けるための方策を求めたという。また、秀家の近況を伝えるためであろうか、忠恒は京に秀家の母圓融院(『休復の袋』)を訪ねている(『旧記雑録後編』)」と。
 島津氏の本領安堵と秀家の助命交渉については、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)のコラム「粘り腰外交によって本領を安堵された島津家」の中で、次のように記しました。
 「慶長7年(1602)になって、島津家の家老の島津忠長が上洛し、本多正信と交渉の末、家康の起請文を出されることに成功する。
 しかし、その後、島津家が宇喜多秀家を匿っていたことが家康に知れ、彼を引き渡さざるをえなくなる。
 しかし、家康が近々征夷大将軍に就く関係で、秀家の命は保証すると言ってきたために、島津家はこれ以上匿うと家の存亡に関わると判断し、秀家を家康に引き渡し、島津忠恒が上洛する形で、事の収拾がはかられた」と。
 このコラムを書くに当たっては、桐野作人氏の「島津義久」(PHP文庫)を参照しました。桐野氏の同書には、島津家の「本領安堵と惟新(義弘)の赦免」を記した慶長7年4月11日付の家康起請文が取り上げられています。また秀家を匿っていたことを知った家康が忠恒の上洛と釈明を求めることを記した本多正信書状も取り上げられ、その内容について次のように説明されています。
 「彼(か)の一儀につき、内府がことのほか機嫌が悪しく、御家から何らかの釈明があってしかるべきだと仰せである。ただし、内府は年内にも上洛なされて来年早々にも新たな官位に就かれる予定である。めでたいことゆえ、彼の一儀を穏便に取り計らうよう、正信も奔走するつもりである」などと。
 「彼の一儀」とは、秀家のこと、「新たな官位」とは征夷大将軍のことですが、処刑された三成、小西行長、安国寺恵瓊と共に、関ヶ原の戦いの首謀者だった秀家が助命されたのは、家康側の事情もあったことになります。

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