旅行記271 石田三成の実像3135 7ヶ月ぶりの旅行 佐和山・関ヶ原・大垣4 玉城跡を探訪2 「歴史道」の千田嘉博氏のインタビュー記事

「歴史道 関ヶ原合戦」(朝日新聞出版)の中に、千田嘉博氏のインタビュー記事「新発見!巨大城郭『玉城』から読み直す関ヶ原の戦い」が掲載されています。NHKの番組で紹介されたことと重なりますが、千田氏によれば、巨大な「玉城」に三成らは豊臣秀頼や毛利輝元を迎え入れるつもりで、あらかじめ構築したものだと推定されています。関ヶ原方面への大手道や連続した外枡形があり、周囲を竪堀、切岸、土塁に囲まれた山頂の本丸には本陣や陣小屋があったことも述べられています。人工の急斜面の「切岸」は最高20メートルに達し、本丸はそういう「切岸」に囲まれていため、この急斜面を登って本丸に攻め込むのは極めて困難で、無理に攻め上ろうとしても、本丸からの射撃で狙い撃ちされると説明されていますが、確かに現地に足を運ぶと、山頂の周りはどこも急斜面だということが確認できました。また大手道を登りきって城内に入ると、複数の門が設けられ、進行方向に対し90度曲がることを繰り返さなければ、城の枢要部に到達できない、「外枡形」の構造になっていたということも説明されていますが、玉城跡を上り下りする時に、そういう構造になっていることも確認できます。
 DSCN1550.JPGDSCN1558.JPG 玉城から関ヶ原方面がよく見え、指揮を取るのに絶好のポジションであることがわかるということも明らかにされていますが、残念ながら、木々などが妨げとなって眺望はあまり効きなかったものの、当時は、高い山だけに見晴らしがよかったということは容易に想像がつきます。
 DSCN1571.JPG 山を下り、東海自然歩道を今度は北に歩き、北国街道を東にたどり、通説では三成が陣を置いていたとされている笹尾山に向かいました。玉城が、北国街道にも中山道にもにらみを効かす良い場所にあり、家康方軍勢がどちらの方に進むのも阻止できる恰好の位置を占めていることがよくわかりました。もっとも、千田氏のそのインタビュー記事に掲載されている推定布陣図では、三成が玉城付近、他の軍勢が通説の大谷吉継陣跡付近に陣を置いている形になっています。この布陣図は中山道を押さえる陣形になっていますが、各武将がどの位置を占めていたかまでは明らかにされていません。このあたりは今後の検討課題だと思われます。高橋陽介氏の説によれば、三成ら豊臣公儀方の軍勢は中山道を押さえると共に、松尾山の小早川秀秋を牽制する陣形になっており、北国街道に対しては無防備です。それが新たな玉城の発見によって、北国街道も視野に置いていたのではないかという思いを持ちます。
 

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