石田三成の実像3112 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」124 中脇聖氏「長宗我部盛親の戦い」3 伊勢攻めに参加・長束正家と安国寺恵瓊が伊勢攻めの最高指揮官であったという白峰氏の見解

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中脇聖氏の「長宗我部盛親の戦い」の中で、関ヶ原の戦いの前に、盛親らは伊勢方面を攻めますが、そのことについて次のように記されています。
 「長宗我部の軍勢は8月24日、毛利秀元、吉川広家、長束正家らの軍勢と合流、総勢3万余の軍勢で江戸方の富田信高、分部光嘉らが守備していた伊勢国(三重県)の安濃津城を攻めた。関ヶ原合戦の前哨戦ともいうべき戦いであったが、大坂方の圧倒的兵力を前に、千数百という寡兵にすぎなかった富田らは翌日には降伏・開城を余儀なくされた」と。
 伊勢攻めについては、拙ブログで以前取り上げたように、白峰氏の「『伊勢国津城合戦頸注文』及び『尾張国野間内海合戦頸注文』に関する考察」の中で、「毛利家文書」を検討することによってその実態が具体的に論じられています。「吉川広家自筆覚書案(慶長6年)」の記述から、「奉行衆の相談により、吉川広家の伊勢への出陣が決定した、としている点は、豊臣公儀の四奉行(石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以)が合議で次の軍事方針(部将クラスの次の出陣場所)を決定したことや、豊臣公儀の四奉行が部将クラスに対する軍事指揮権を掌握していることがわかる」と指摘されています。
 また「8月10日付益田元祥宛毛利輝元書状写」の記述から、「毛利秀元の伊勢方面への陣替について長束正家と安国寺恵瓊が決定して、そのことを毛利輝元が事後承認している。このことからすると、四奉行のほかに安国寺恵瓊も次の軍事方針決定の合議に加わっていた可能性が高い」ということも記されています。
 さらに上記の史料から、「長束正家と安国寺恵瓊が豊臣公儀から現地(戦場)に派遣された最高指揮官(豊臣公儀から派遣された軍監としての立場も兼任)であった」ということも指摘されています。
 津城(安濃津城)攻めに功績のあった吉川広家と鍋島勝茂に対して、増田長盛が8月26日に感状を出していますし、同日付で小山村(現三重県津市一志町小山)に対して、増田長盛・安国寺恵瓊が禁制を出しています(白峰氏作成の「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」にも掲載されています)から、確かに二人が伊勢攻めの最高指揮官であることを物語っています。
 長宗我部盛親の軍勢も、長束正家・安国寺恵瓊の指揮の下、毛利軍などと共に豊臣公儀軍の一員として伊勢に向かい、安濃津城を攻めたということになります。もっとも、安濃津城攻めで長宗我部軍が特別な戦功を立てたということは今のところ、確認されていないようですが。

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