石田三成の実像3115 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」127 中脇聖氏「長宗我部盛親の戦い」6 土佐に戻った盛親の動き・家康との妥協案も一揆の勃発によって水泡に帰し、改易

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中脇聖氏の「長宗我部盛親の戦い」の中で、土佐に帰国した盛親の動きについて次のように記されています。
 「盛親は当初、江戸方の追撃に備え、防備を整えていた。『給人、一人も残らず妻子共、召連れ当城(=浦戸城)へ』と命じつつ、『無足人(所領を給付されていない下層家臣)の事、手あしの立候もの一人も残らず』とも念押ししており(『土佐国蠧簡集』)、まさに籠城を前提とした総力戦を覚悟して動員をかけていた様子がうかがえる。土佐国内では、こうした徹底抗戦の防備が進められていたのだが、慶長5年11月中旬頃、盛親は突如として上坂し、徳川家康に降伏する。これはすでに平井上総氏が明らかにされているように、土佐国没収のかわりに『御堪忍分』の給付と家康への『出仕』が取り決められたうえでの上坂だったといえよう(平井 2008)」と。
 この盛親の上坂については、「盛親の身上を保証することで平和裏に土佐国を接収したいという家康のねらいと、徹底抗戦によって消耗もしくは敗北濃厚な危険を孕む盛親の利害が一致した妥協案であった」ということも記されています。
 家康の狙いはその通りだと思いますが、盛親側の事情として、盛親が「恫喝も交えた動員の徹底」を図ったものの、「給人の動員忌避が現出していた」ことが、盛親の「上坂の理由の一つと考えられる」と、津野倫明氏の「関ヶ原合戦と長宗我部氏のカタストロフィ」の中で指摘されており、そういう側面も少なくなかったという気がします。
 しかし、浦戸一揆の勃発によって、この妥協案は水泡に帰して、盛親は改易され浪人してしまいますが、中脇氏の同書では、浦戸一揆について、次のように記されています。
 「『一揆』の首謀者たちが盛親に近い重臣たちではなく、長宗我部家に臣従した旧国衆たる津野・吉良家の旧臣たちであったことから、長宗我部家や当主の盛親に対する反感が根深いものであったことがわかる。
 とくに『御堪忍分』の給付による土佐国没収という盛親の妥協策は、在郷給人たる彼らからすれば、先祖伝来の土地と身分を失う一大事であったのである。それだけに、土佐一国安堵を求めて蜂起したのも当然だったといえよう」と。
 津野氏の同書には、一揆鎮圧に協力した宇賀二兵衛に対して「年寄共」が発した12月3日付の感状が掲載されていますが、次のように解説されています。
 「この感状には『年寄共』として非有斎や『家老』の家柄とされる桑名・中内・野中・吉田の各氏の人物が連署している。これによれば一揆は12月3日頃に『年寄共』や重好の軍勢によって鎮圧されており、5日頃には浦戸城が井伊側に明け渡されたとみられる(『土佐国蠧簡集』754号・755号)」と。
 「年寄共」は「家臣団上層の者たちである」こと、「階層差にもとづく家臣団内の軋轢が一揆発生の背景にあったと判断される」ことなども指摘されています。一揆の要因として旧国衆と長宗我部家臣の対立だけでなく、家臣団の階層差の問題もあったということは十分理解できます。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント