石田三成の実像3116 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」128 中脇聖氏「長宗我部盛親の戦い」7 大名復帰かなわず、大坂の陣で豊臣方に加わり斬首

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中脇聖氏の「長宗我部盛親の戦い」の中で、改易され浪人した盛親の動きについて次のように記されています。
 「慶長6年(1601)には京都の伏見に『在宅』し、『身上』が定まっていない様子がうかがえる(『萩藩閥閲録』)。しかし、大名復帰に向けた再仕官活動を行っていたと思われる史料も確認できる(『蜷川家文書』)が、再仕官が叶うことはなかった。この点、筑後国柳川(福岡県柳川市)の大名だった立花宗茂が、改易後旧領復帰を果たしたことと明暗を分けたといえよう」と。
 「大坂の陣に参陣・奮戦するも敗退。盛親は捕らえられ慶長20年(1615)5月、京都の六条河原で斬首されるに至り、長宗我部の惣領家は滅亡した」と。
 立花宗茂の旧領復帰については、安藤英男氏の「西軍武将事典」(安藤氏編「石田三成のすべて」【新人物往来社】)の中で、「改易となったが、浪々の末、徳川氏に仕え、慶長8年、陸奥棚倉1万石、元和6年、旧領柳川11万石に返り咲いた」と記されています。
 立花宗茂が復帰できたのは、大名・武将としてそれまで活躍しており、その勇猛さは碧蹄館の戦いで味方を勝利に導いたことに代表されるように、武将達の間でとどろいており、家康も彼の資質・能力を評価していたからでしょうし、家臣や領民の支持も大きかったからではないでしょうか。盛親の方は武功も立てていませんでしたし、領内をまとめ切れていませんでしたから、家康の評価も低かったような気がします。
 盛親が関ヶ原の戦いで大坂方(豊臣公儀方)に付いた理由について、中脇氏の同書では、次のように説明されています。
 盛親は「国持大名の嗣子としては異例ともいうべき叙位任官がされず冷遇されていた。それだけに、大坂方に味方することによっては羽柴政権内での地位向上(叙位任官)や知行の加増を条件提示されていたとすれば、彼が大坂方に味方したのは必然だったのかもしれない。つまり、盛親にとっての関ヶ原合戦とは、自身の地位向上と加増を勝ち取るための戦いであった」と。
 盛親が大坂の陣で豊臣方に付いたのも、大名に復帰する最後の機会だと捉えたからではないでしょうか。浪人になってからの期間が長く、大坂の陣は起死回生のチャンスだったと思われます。敗北して処刑されたものの、最後に意地は通しましたから、そういう点は大いに評価してよいのではないでしょうか。
 なお、長宗我部の領地であった土佐国には、山内一豊が領主として入りましたが、長宗我部家の家臣たちの反発に遭い、領地を治めるのに苦労しています。
 

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