石田三成の実像3118 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」130 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」2 秀吉死後の動き・朝鮮半島から撤兵し、秀頼に拝謁、利家邸・家康邸を訪問

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、秀吉の死後の直茂の動きについて、次のように記されています。
 「慶長3年(1598)11月、嫡男の勝茂とともに朝鮮に在陣していた直茂に、秀吉死去に伴う撤兵命令が届く。秀吉の死後の政局を睨み、直茂は徳川家康が派遣してきた特使の徳永寿昌を仲介に家康とのつながりを持とうとする。直茂・勝茂父子は博多に着船し、石田三成らから秀吉の遺言を聞くと、佐賀に立ち寄らずに上洛する。秀頼に拝謁し、前田利家邸で秀吉御遺品を拝受し、家康邸にも伺候している」と。
 三成が浅野長政と共に朝鮮半島からの撤兵を円滑に進めるために、博多に入ったのは10月下旬だと思われます(中野等氏「石田三成伝」)。直接朝鮮半島に渡って諸将に和平案を伝えたのは徳永寿昌・宮木豊盛ですが、帰国した彼らを三成は11月2日に名島で迎え、同日付で在朝鮮の諸将に対して具体的な指示を与えています。朝鮮半島にいた諸将は次々と帰国してきますが、12月10日に島津勢が、11日に小西行長・立花宗茂らが博多に戻っています。小西行長は順天城に取り残された形でしたが、島津義弘・忠恒、宗義智、立花宗茂などが助けに来たことによって、帰国することができました。三成は10日過ぎまで博多にとどまり、24日には島津忠恒と共に大坂に戻っています。
 三成が博多で撤兵作業などに当たっている間に、家康は伏見で各大名家を訪問していました。これらの訪問は、従来は家康の多数派工作だと考えられ、今もそういう捉え方がよくなされていますが、高橋陽介氏はそれに対して否定的見解を述べられています。すなわち、高橋氏の「慶長4年1月3日付け島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の中で、「徳川家康と親しく交際してはいけないという『天下の制法』はなく」、「たとえば慶長3年10月25日には増田長盛が徳川家康の邸宅を訪問し、夜まで雑談をしてい」ること、島津龍伯(義久)は「増田長盛・長束正家からの許可を得て、12月6日、徳川邸を訪問し」たことなどが明らかにされています。これらのことからすれば、奉行衆も承知の上で、家康が屋敷を訪問したり、各将が家康邸を訪問したりしていたことになります。もっとも、家康は各将の屋敷を訪問することによって、密かに婚姻を進めていた可能性はあるような気はします。
 直茂が、帰国後、秀頼に拝謁し、利家邸、家康邸を訪ねたのは、主君、大老に会っているわけですから、順序としては自然な流れと云えます。これからだけだと、直茂が家康に接近しようということは云えません。徳永寿昌が朝鮮半島に派遣されたのも、家康の意向というより、豊臣政権を担う五大老・五奉行が了解した上のことです。しかし、翌年の慶長4年の動きを見てゆくと、直茂の家康への接近ぶりがよくうかがえるようになりますが、そのことについては、中西氏の同書に詳しく記されており、後述します。

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