石田三成の実像3119 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」131 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」3 家康との結びつきを強めた慶長4年の動き

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、秀吉の死後、直茂と家康との結びつきを強めた慶長4年の動きについて、次のように記されています。
 「伏見で越年した直茂は家康に年賀の挨拶を済ませた後、家康の重臣井伊直政を訪ねて向後家康への忠節を抽んずる覚悟がある由を申し置いた。直政からそのことを知らされた家康は、直政に直茂へ答礼に赴かせる。直政が直茂すなわち龍造寺家と家康の取次的役割を果たした最初のことである。
 以後、直茂は家康のために犬馬の労を取り、家康もそれに謝意を伝えている。上方情勢不穏の折、家康の身辺警護のためさまざまに尽力したことが伝えられるが、とくに秀忠正室小督の方を有事の際には鍋島家で保護するように依頼されたことは特筆に値するであろう」 
 「4月、直茂は賜暇を得て帰国するが、その際、西国で一朝事あるときには公儀の軍勢の粮秣は龍造寺領で負担することを言上している。家康が伏見から大坂に移るに際しての世情騒擾を聞いて、直茂は10月下旬に急遽大坂に駆け付けた。これを家康は『加賀守、老躯をもっての早々の上洛、格別苦労のことである』と懇ろに労っている。家康の側からも、直茂の働きを注視していたことの表れであろう。
 直茂はそのまま勝茂、主君・龍造寺高房とともに大坂玉造の屋敷で越年する」などと。
 中西氏の同書には、家康と直茂のパイプ役として重要な役割を果たしたのが、「家康のブレーンの一人であった臨済宗の元佶長老こと三要元佶」だったことも指摘されています。元佶と直茂の関係について、次のように記されています。
 「元佶は号を閑室といい、肥前小城郡の出身。本姓を野辺田氏という。野辺田氏は一時期直茂が養子入りしていた西千葉家の家臣で、直茂が鍋島家に復帰する際に譲られた一二家門の一つでもあった」と。
 直茂は4月に帰国した際は、すでに大老の前田利家は亡く、三成も失脚して佐和山に引退していた後でしたから、家康は豊臣政権で重きをなす存在になっていました。直茂が10月下旬に大坂に駆け付けた時は、家康は豊臣政権の再編、谷徹也氏が言うところの「クーデター」を行っている最中でしたから、家康のために尽くそうと考えてそうしたのでしょう。しかし、直茂はその一方、豊臣家に対して格別の思いは持ち恩義は感じていたはずで、家康に接近したのも、家康が豊臣政権の大老筆頭の地位に上り詰めていたからだったと思われます。それだからこそ、関ヶ原の戦いの際は、三成や輝元らの新たな豊臣公儀側に付くか、「内府ちかひの条々」すなわち家康弾劾状が出されることによって公儀性を失った形になる家康側に付くか、大いに迷ったのではないでしょうか。
 ちなみに、秀吉の正室小督(江)の方が、京都から江戸に下向したのは慶長4年12月のことであり、同年6月に秀忠の次女の子々が江戸で誕生しています。従来、子々は小督が生んだとされてきましたが、福田千鶴氏は、秀忠と小督の居所から、別の女性が生んだという見解を示されています。秀忠は秀吉の死後の直後に江戸に下向し、そのまま慶長5年7月までずっと江戸にいました。

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