石田三成の実像3120 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」132 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」4 会津攻めの際は帰国して西国筋の押さえとなるよう命じられる・勝茂はすぐに会津攻めに向かわず、やがて新たな体制の豊臣公儀軍に加わる

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、慶長5年の家康が中心となって発動した会津攻めの際の、直茂の動きについて、次のように記されています。
 「直茂も当然の如く従軍を願った。慶長4年の龍造寺家の財政報告書である『目安』は在京家臣団にかかる費用が在国家臣団の二倍近くを計上している。かなりの大兵力が上方に駐屯していたことは間違いない。
 しかし、家康は直茂に帰国して豊前中津に在国する黒田如水とも協議して西国筋の押さえとなるように命じた。直茂は即日帰国の途に就くが、代わりに勝茂と高房を従軍させることを願い出て許されている」と。
 この会津攻めは、家康が強行したものですが、あくまで豊臣公儀の名で発したものですから公戦という位置づけでした。直茂が会津攻めに積極的に関わるのも当然のことと云えます。家康から如水と共に西国衆の押さえを任された直茂でしたが、家康が会津攻めの大坂から出立した後、三成らが挙兵し、家康を排除した新たな豊臣公儀体制を構築し、会津攻めに加わるはずであった勝茂が豊臣公儀軍に加わるに及んで、直茂の立場は新たな豊臣公儀体制寄りになってきます。そのことについては、中西氏の同書に詳述されていますが、後述します。勝茂が豊臣公儀軍に加わったいきさつについては、中西氏の同書で次のように記されています。
 勝茂は「江戸に下向する家康軍を追ってただちに出陣すべきところ、なぜか京都近辺で一ヶ月近くも逡巡し、7月初旬にようやく東進しはじめた頃にはすでに石田三成が挙兵、三成の兄正澄が近江愛知川の関を閉ざしていたのである。
 前途は閉ざされ、後方は不穏、大坂の母や妻子は人質に取られている恐れがある。勝茂は近江八日市まで軍を戻し、情勢を観望した。やがて、毛利輝元、宇喜多秀家の二大老や奉行衆から書状で招かれ帰坂、『内府ちがひの条々』にも触れ大坂城で秀頼に拝謁したこともあってか、以後、毛利輝元を総帥とする反家康決起軍、いわゆる『西軍』に加担して積極的に行動することになる」と。
 勝茂がすぐに軍を動かさなかった原因については、いろいろと考えられます。勝茂が軍を率いることに積極的でなかったのか、すでに政権内の不穏な空気を感じ取っていたのか。軍の編成の問題点については、中西氏の同書で次のように説明されています。
 「龍造寺家臣団を再編制した二つの先手『与(くみ)』のうち小規模に成富茂安与しか参加せず、龍造寺一門の比重が高い」こと、「龍造寺宗家家督の高房が従軍し」「高房が総大将として奉じられていた」こと。高房は「わずか15歳で今回が初陣」だったことも記されています。   
 不穏な空気ということでは、白峰氏が6月上旬に書かれたものと思われる輝元書状の中で、三成や奉行衆が会津攻めに反対し、家康に対する挙兵を輝元に促していると指摘されており、ひそかにそういう動きが進んでいたものと思われ、勝茂もなんとなくそういう動きを感じ取っていたのかもしれません。愛知川の関で止められたというのは、江戸時代になってから考え出された言い訳の可能性もあります。

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