石田三成の実像3122 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」134 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」6 美濃方面に転進せず伊勢方面にとどまった理由は?

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原大乱の際、豊臣公儀方に付いた勝茂・龍造寺軍の伊勢方面の動きについて、次のように記されています。
 「龍造寺軍は毛利秀元、吉川広家らとともに伊勢方面を経略、阿濃津城・松阪城を攻略した。これにて伊勢方面はほぼ平定されたのだが、東軍が予想外の積極的な攻勢に出て岐阜城を攻略してしまう。西軍は新たに大垣城を軸とする防衛戦を構築することとし、伊勢方面の西軍も北上を開始する。しかし、勝茂は福島正頼(正則弟)の籠もる伊勢長島城の押さえにあたることを願い出、野代への滞陣を許された。9月14日、いよいよ家康との決戦近ということで大垣城の宇喜多秀家、石田三成から関ヶ原への転進が求められたが、今龍造寺家が北上すれば長島城の東軍が打って出て西軍の後背を突くのは必定であるので、長島城の押さえを継続したい旨を伝え、許諾を得ている」と。
 美濃方面の三成ら豊臣公儀方は大垣城と岐阜城と結ぶ線で、家康方軍勢を迎え討つ作戦を立てていましたが、その一方の岐阜城が家康方軍勢によって、あっけなく落とされてしまったのは大きな痛手でした。それだから、大垣城の三成や宇喜多秀家は、北陸方面軍や伊勢方面軍に美濃方面に集結するよう要請し、家康方軍勢に対して決戦を挑む作戦をとったわけです。
 勝茂・龍造寺軍が動かなかったことについては、中西氏の同書で次のように記されています。
 「西軍方として積極的に活動し、いまだ十分な兵力を維持していたと思われる龍造寺軍が、この土壇場で急に消極的、日和見に近い行動を取ったのは国許の直茂からの使者が到着し、自重を促したからだとも伝えられるが、確証はない」と。
 直茂が勝茂の豊臣公儀方への加担に必ずしも消極的であったわけではないことは、関ヶ原の戦い直前の直茂の書状を見てもわかりますが、このことについては、中西氏の同書で詳述されていますので、改めて触れたいと思います。直茂が消極的でなかったとすれば、直茂の要請によって勝茂が軍を動かさなかったと言うことも腑に落ちませんし、このあたりは実際、何が原因しているのか、改めて検討する余地があるように思います。勝茂が自分の判断で家康との対決を避けようとしたということも考えられなくもありません。
 もっとも、龍造寺軍が美濃方面に転戦していたとしても、毛利秀元軍や吉川広家軍と行動を共にしたとすれば、南宮山付近に布陣して戦いに加わらなかった可能性が高いわけですから、関ヶ原の戦いの戦況に影響を与えなかったかもしれません。
 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

この記事へのコメント