石田三成の実像3124 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」136 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」8 国許にいる直茂の苦悩・8月10日付の黒田如水宛直茂書状についての白峰氏の見解

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原の戦い前の国許にいる直茂の苦悩について、次のように記されています。
 「勝茂からは(おそらくは西軍方の軍役規定に不足分の)人数・弓・鉄砲を上方に送るようにとの催促が来る。また、奉行衆や安国寺恵瓊
からは直茂自身が軍勢を率いて上坂するように命じてくる。豊臣政権の大義名分は大坂城と秀頼を抱え込んだ西軍方にあることは明白で、直茂もその命令を拒むことはできず、さらに進んで家康を見限る風でもあった。さりとて積極的に動くこともなく、伏見城落城の報を得て、これ以上の増援と自身の上坂は延期することにしたと、8月10日付の書状で黒田如水に申し送っている。
 それが直茂の本心であるのか、上方の勝茂の動向を懸念してのことであるのかは不分明だが、直茂も西軍加担の立場を明言してもいる」と。
 8月10日付の黒田如水宛直茂書状については、白峰旬氏の「関ヶ原の戦い関連の鍋島家関係文書についての考察」の中で、次のようなことが指摘されています。
 「①この書状では、家康(内府)については、一言も触れていないので、この時点(8月10日の時点)では直茂が如水を家康方と見なしていたようには思えない。直茂が家康寄りのスタンスであったなら、如水に家康への取り成し(取次ぎ)を書くはずであるがそうしていない。家康について一言も触れていないのが、すべてを物語っており、この時点の直茂の立ち位置は豊臣公儀(石田・毛利連合政権)方のスタンスであることがわかる。つまり、豊臣公儀の敵になった家康のことは直茂の眼中にないということであろう。家康のことをすでに見限っている(見放している)のかも知れない。
 ②この書状内容全体の印象としては、如水を豊臣公儀(石田・毛利連合政権)方と認識して、直茂が上坂していない理由(弁明)を書いているように思える。8月上旬から中旬の豊臣公儀(石田・毛利連合政権)方有利の状況(家康方不利の状況)を如実に反映している。
 ③この書状内容全体の印象としては、直茂は如水と気脈を通じて、今後同一の軍事行動をとる、というような方向性は見えない。
 ④伏見城が落城したので、直茂が上坂を延期した、というのは兵力的に豊臣公儀(石田・毛利連合政権)方への加勢が一旦必要なくなった、と考えたからだろう。(中略)このように、直茂は上坂を中止したのではなく、一旦延期したわけだから、今後家康方との決戦が近付けば、兵力を連れて上坂する、という意図が見えるのではないだろうか。上坂するということは単に挨拶する、という意味ではなく、兵力を連れて上坂し、豊臣公儀の指揮下で軍事行することを意味する。
 (中略)
 ⑦この書状において、家康のことは一言も触れていない一方で、豊臣公儀の政権幹部である増田長盛・長束正家・安国寺恵瓊のことは明記されていて、そこからの指図(命令)を受けたことを記している。つまり、増田長盛・長束正家・安国寺恵瓊らのメンバーによって構成された新政権を、直茂は正統な政権(豊臣公儀)として認めていることがわかる。正統な政権として直茂が認めていないならば、増田長盛・長束正家などを非難する文言を書くはずだが、そのような文言は一切書かれていない。ということは、この文書の宛所である黒田如水も、この時点では同じ立ち位置(新政権としての豊臣公儀を認める立場)と考えてよいのではないだろうか。」などと。
 白峰氏の見解からすれば、直茂は豊臣公儀方のスタンスであり、上坂の延期も、中止ではなく戦う機会が来れば兵を率いて上坂する意図であったということになります。上坂の延期をどのように捉えるかは、議論の分かれるところだと思われます。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

この記事へのコメント