石田三成の実像3125 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」137 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」9 直茂の苦悩2 9月10日付の黒田如水宛直茂書状をめぐって

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原の戦い前の国許にいる直茂の苦悩について、次のように記されています。
 直茂は「9月10日付の書状で、家康与党として挙兵することを伝えてきたとおぼしい黒田如水に対して、今後は書状を出さない、すなわち断交を宣言したのである。ただし追而書に、言いたいことはあるが紙面では述べることはできないとしたのは意味深長ではあるが、ともかく直茂と如水は以後音信不通となったのは確かで、9月13日の石垣原の戦いの結果も、如水から直接直茂に伝えられることはなかった」と。
 9月10日付の直茂書状については、白峰旬氏の「関ヶ原の戦い関連の鍋島家関係文書についての考察」の中で、次のようなことが指摘されています。
 「9月10日の時点までは、まだ直茂と如水の間に書状のやりとりはあったことになる」
 「家康に一方的に肩入れしている如水に対しては今後、直茂からは書状を出さない、というように断交を宣言していることになる」
 「言いたいことはあるが紙面では述べることができない、としていることは、直茂は如水と相当スタンスが違うという意味なのであろうか」
 「9月10日の時点で鍋島直茂は家康方でないことが明確にわかり、家康方の如水に同調していない、という点で重要な意味がある」 
 「『内府』と記されていて敬称を付けていない点にも注意したい」などと。
 断交を宣言しているという点では、中西氏も白峰氏も同意見ですが、「言いたいことはあるが紙面では述べることはできない」という文面をどう解釈するかについては、ニュアンスの違いがあるように思います。中西氏の見解では、共に家康与党であった如水に対する特別な直茂の思いと如水から離れることに対する未練があったのではないかというふうにも捉えられるのではないでしょうか。白峰氏の見解では、直茂は如水や家康とは完全に決別し、自分は新たな豊臣公儀の側に付くというその思いを相手に伝えたいという気持ちがあったというふうに捉えられているような気がします。直茂が家康与党になったのは、家康が豊臣政権の中の第一の実力者だったからで、鍋島家を引き立ててくれた豊臣家に対する直茂の思いは並々ならぬものがありました。拙ブログで前述したように、中西氏の「戦国時代龍造寺氏の盛衰と鍋島直茂」の中で、直茂は豊臣家が滅んだ後、生前墓に「鍋島加賀守豊臣朝臣直茂」と刻ませていることが明らかにされています。このことからみても、直茂は豊臣家に恩義を感じていたことがわかります。しかも、息子の勝茂は豊臣公儀方に付いて、伏見城を落としてさらに伊勢方面に進攻を進めており、三成らも美濃方面に展開していましたから、豊臣公儀側は勢いに乗っていると、この時点で直茂は判断していたと考えられます。8月23日に、家康方軍勢が豊臣公儀側の岐阜城を落としたという情報は、直茂にはまだ伝わっていなかったのではないでしょうか。
 

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