アニメ映画「風立ちぬ」に出てくるヴァレリーの詩 日本文学探訪130 堀辰雄の原作小説で「いざ生きめやも」と訳された意味合い(植村正純氏の見解)

img153.jpg アニメ映画「風立ちぬ」は、堀辰雄の小説「風立ちぬ」の話と、飛行機を開発することに情熱を注いだ堀越二郎の話を合体させたものですが、映画では二郎と菜穂子との最初の出会いの場面に、ポール・ヴァレリーの詩の一節が使われています。風が吹いて、二郞の帽子が飛んだのを奈穂子がつかんだ時、菜穂子がフランス語で「風が立つ」と言い、二郎はそれを受けてフランス語で「生きようと試みなければならない」と言います。
 これは原語の忠実な訳ですが、堀辰雄はこの詩の一節を「風立ちぬ いざ生きめやも」と訳しています。私は以前から、この訳はおかしいのではないかと思っていました。「めやも」は、「~であろうか、いや決して~でない」という意味(「や」は反語)になるからです。
 ところが、植村正純氏(私の短歌の師である植村武先生のご子息)が、堀辰雄は敢えてそういう破格的転用をすることによって、「心の葛藤・懐疑も内に込めた意思表示」をして、「さあ生きるよう努めようか」と独白するニュアンスを出そうとしたという見解を示されていることを数年前に知りました。奈良時代に多く見られる「めやも」は、「意味合いの深い、微妙な心の襞や陰影の潜む意思表示」であり、「詠嘆性や呼びかけの念」を表出する際の言葉であること、小説「風立ちぬ」は「恋人の死によって浄化・昇華された愛と生の物語」であることが、その根拠として挙げられています。こういう見解に接して初めて.、確かにそうだとようやく腑に落ちました。
 なお、原文では「風が立つ」と現在形ですが、堀辰雄は完了の助動詞「ぬ」にして、「風が立った」という意味にしています。小説では、風が吹いて恋人が描きかけていた絵が倒れたのを知って、「私」はヴァレリーの詩の一節を口にしています。確かに「さあ生きるよう努めようか」と、彼女と共に前向きな姿勢で生きようとしているわけです。そういう意味では「風が立つ」前と後では、大きな心境の変化があったように思われます。その心境の変化を堀辰雄は、「ぬ」という完了の助動詞を用いることによって、明確に表しているわけです。小説の題としても、「風が立つ」よりも「風立ちぬ」の方が、圧倒的なインパクトがあります。
 マーガレット・ミッチャムの有名な小説「風と共に去りぬ」にしても、「去ってしまった」という完了形にすることで、大きな余韻を生んでいます。この小説の場合は、アメリカ南部の特有な文化が、南北戦争の敗北によって、失われてしまった哀惜の念をこの題に込めています。むろん、南部にはかつては奴隷制度があり、この小説が黒人差別的な面を含んでいることは否定できず、人種差別につながりかねない問題点があることは押さえておかねばなりませんが。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント