石田三成の実像3126 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」138 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」10 関ヶ原の戦いの後も豊臣公儀側の立場を取るも、日隈城には援軍を送らず・日隈城の留守居役と連絡を取り合っていたことを示す書状

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原の戦い後の国許の直茂について、次のように記されています。
 「関ヶ原本戦での東軍大勝利の報が届いて以降も、勝茂の西軍加担の罪で龍造寺家が公儀の征伐を受けるか赦免されるか、それが確定するまでは直茂は在国する西軍方諸大名や留守居の家臣と連携し、西軍方としての立場を取り続けた。ただし、毛利高政の留守城の豊後日隈城から黒田如水の脅威に対抗するための加勢を求められた際には、加勢は出すべきとしながら龍造寺宗家隠居政家が認めないこと、距離が遠いことを理由に婉曲に断るなど、実際に軍事行動を起こすことに対しては慎重な態度を取っている」と。
 直茂が豊後日隈城の留守居役である森(毛利)兵庫と連絡を取り合っていたことを示す書状2通が、白峰旬氏の「関ヶ原の戦い関連の鍋島家関係文書についての考察」の中で、取り上げられています。
 そのうちの1通は8月24日付の鍋島生三宛鍋島直茂書状で、その中で次のように解説がされています(部分)。
 「鍋島直茂が鍋島生三に対して、『日田』(森〔毛利〕兵庫)へ飛脚を申し付けて、『豊州表』のことを聞くように指示している。当時、日田にあった日隈城(豊後国)の城主は毛利高政であったが、毛利高政は豊臣公儀方として出陣するために上方にいたので、国許に在城していた家臣の森(毛利)兵庫に対して飛脚を出すことになったと思われる。このように、鍋島直茂は『日田』(森〔毛利〕兵庫)を通して、『豊州表』の情報を得ようとしていた。この『豊州表之儀』とは(中略)中津城(豊前国)に在城している黒田如水の軍事的動向(中略)を指していることがわかる。(中略)
 鍋島直茂が『日田』の森(毛利)兵庫と連携を取ろうとしていたことがわかる。日隈城主の毛利高政は豊臣公儀方として上方に出陣していたので、この書状を出した時点では鍋島直茂は、豊臣公儀方としてのスタンス(つまり、反家康方としてのスタンス)であったことがわかる。ちなみに、この書状では家康については全く言及していない」などと。
 この時点では、勝茂が豊臣公儀側として伏見城攻めに加わり、落城させたことが直茂に伝わっていた時期ですから、直茂は完全に「豊臣公儀方のスタンス」だったわけです。毛利高政は豊臣公儀軍として丹波田辺城攻めに加わり、日隈城を留守にしていました。直茂は早い時期から、日隈城と連絡を取っていたわけです。日隈城はその後黒田如水に攻められ、降伏し開城しますから、如水は直茂と敵対関係になったわけですが、直茂が援軍を送らなかったから、日隈城は屈服せざるをえなかったわけです。
 
 

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