石田三成の実像3140 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」145 渡邊大門氏「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」3 伏見城攻め前後の小早川秀秋

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、渡邊大門氏の「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」の中で、小早川秀秋は関ヶ原合戦の際、最初から家康寄りであったという「寛政重修諸家譜」(稲葉正成系譜)の内容が紹介されていますが、伏見城攻め前後のことは次のように記されています。
 「秀秋は、家康から伏見城(京都市伏見区)の守備を託された鳥居元忠に使者を送った。そして、秀秋は西の丸を守り、実父の木下家定を人質として本丸に入れると申し出た。しかし、元忠がこの提案を拒否したので、秀秋はやむなく7月19日からの伏見城攻撃に加わった。事実上、西軍に身を投じたのである。
 とはいえ、秀秋の気持ちは家康にあった。そこで、正成は秀秋に説いて、上方の情報を家康に報告したのである。伏見城落城、三成は秀秋を伊勢安濃津(三重県津市)に向かわせたが、秀秋が西軍に属したのは本心ではなかった」と。
 「寛政重修諸家譜」は後世の編纂史料ですから、その記述をそのまま鵜呑みにすることはできません。渡邊氏の同書でも、「東西両軍から秀秋に誘いがあったことは事実と考えてよいが、破格の条件や家譜という史料の性格も含め、慎重に検討する必要がある。その後、秀秋が不本意であったかどうかは別にしても、西軍方で行動したことは事実である」と。
 「寛政重修諸家譜」の記述からは、関ヶ原大乱の際、本当は家康の味方に付こうと思っていたが、致し方なく毛利・三成らの側に付いたのだという言い訳がうかがえるような気がします。伏見城攻めに関して云えば、最初は伏見城に入って家康方として戦いたかったにもかかわらず、鳥居元忠に拒否され、入城できなかったため、やむなく城を攻撃する側に加わったのだと。この経緯は、島津義弘の場合とよく似ています。義弘は家康から前もって伏見城に入るように要請されていたものの、鳥居がそのようなことは家康から聞いていないと、やはり入城を拒否されて、仕方なく城を攻める側に回ったのだと。島津義弘の場合も小早川秀秋の場合も、同じような理屈を用いて、仕方なく毛利・三成ら豊臣公儀側に付いたという描き方をしているわけですが、あまりに類似しているような気がしてなりません。島津義弘の場合は、家康との約束は口約束だったので、鳥居も知らなかったと云うことを桐野作人氏が主張されていますが、ありえない話ではありません。しかし、本当にそうだったのか、一次史料などを通じてよく検討する必要があるように思います。桐野氏は義弘が豊臣公儀側に付いた理由として、義久の娘で忠恒(義弘の息子)の夫人になっていた亀寿が、人質として捕らえられていたことが大きかったと指摘されていますが、その見解には納得できます。
 秀秋の場合も、本当に家康に付くつもりだったのかは、改めて検討する必要があります。結果的に関ヶ原では裏切りましたから、家康寄りだったと捉えられがちですが、心の迷いがあったのではないでしょうか。秀秋の兄弟たちは大半が豊臣公儀側に付いていますから、むしろ豊臣公儀側に付くのが自然だったとも云えます。

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