石田三成の実像3142 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」146 渡邊大門氏「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」4 黒田長政による秀秋の説得 それを示す8月28日付の秀秋宛長政・幸長連署状をめぐって

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、渡邊大門氏の「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」の中で、小早川秀秋が関ヶ原合戦の際に裏切ったのは、「黒田長政による粘り強い交渉の結果であ」ると指摘されており、それを示すものとして「黒田家譜」の黒田長政の遺言覚の記述が挙げられています。
 すなわち、「関ヶ原合戦の日には粉骨を尽くし、石田三成の本陣を追い立てた。とはいえ、これは偶然のことではない。第一には私(長政)の智謀によって、毛利家(輝元)、小早川家(秀秋)を味方につけ、これによってそのほかの者が味方として従ったのだ」と。
 もっとも、この記述について、次のような指摘もされています。
 「長政自身の遺言であるので、内容や表現について多少は割り引いて考える必要がある。というのも、この遺言状は黒田家の永続を願い、孝高(如水)、長政父子の活躍を誇張している部分が少なからずあるからだ」と。
 渡邊氏の同書では、長政が秀秋の説得に尽力したことを具体的に示すものとして8月28日付の秀秋宛黒田長政・浅野幸長連署状が挙げられ、次のように説明されています。
 「黒田長政と浅野幸長が小早川秀秋に対して、秀吉の妻、北政所の縁により、東軍に味方するよう要請したものである。そして、書状を送った二人(幸長、長政)は、北政所の子飼であったと指摘されている。長政は十歳のときに織田信長のもとに人質に送り込まれ、北政所により秀吉の居城、長浜城(滋賀県長浜市)で養育された。幸長の母は、北政所の妹であったという。秀秋は、北政所の兄木下家定の五男だった。つまり長政、幸長、秀秋は北政所と近しい関係にあった。
 秀秋も北政所から恩を受けたという関係によって、長政と幸長が説得に動いたと推測される。しかし、現実にはまだこの時点において、秀秋は東軍に与するという決断をしていなったと考えられる」と。
 従来の通説では、秀秋・長政・幸長らは加藤清正・福島正則らと共に北政所派であって、家康寄りだったという捉え方がされてきました。確かに、彼らは北政所と近しい関係にありましたが、北政所が家康に味方していたかという捉え方は間違っていると考えています。最初に、三成の決起を北政所は支持していたという見解を唱えられたのは白川亨氏ですが、跡部信氏は、関ヶ原の大乱の際の大津城の開城交渉に、北政所と淀殿が連携して、豊臣公儀方として使者を送っていることを明らかにされました。福田千鶴氏は、北政所は京都新城にいて、朝廷などの折衝に当たり、大坂城の淀殿や秀頼を支えていたと主張されています。この連署状では、北政所を持ち出していますが、北政所が長政・幸長に味方していたと考えるのは早計ですし、北政所の名が家康側に都合のいいように使われた可能性があります。豊臣公儀方が発した家康弾劾状である「内府ちかひの条々」でも、家康が北政所を大坂城西の丸から追い出したことを家康の罪状の一つに挙げています。北政所に仕えた東殿は大谷吉継の母ですし、関ヶ原の戦い直後に、北政所は京都御所に逃げ込んでいます。総合的に考えて、北政所が二大老・四奉行による新しい豊臣公儀体制を支持していたと云えるのではないでしょうか。
 
 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 3

面白い 面白い 面白い

この記事へのコメント