石田三成の実像3144 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」147 渡邊大門氏「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」5 長政の来歴、文禄・慶長の役での三成との対立はあったのか? 「黒田家譜」における囲碁にまつわる話は創作との中野等氏の見解

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、渡邊大門氏の「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」の中で、黒田長政が家督を譲られた前後から関ヶ原の戦い直前までの動向について次のように記されています。
 「天正15年、父の孝高が九州征伐の軍功を認められ、豊前中津(大分県中津市)に約12万石を与えられた。その2年後、長政は孝高から家督を譲られた。文禄・慶長の役に出陣したが、石田三成と対立し関係が悪化した。慶長4年閏3月、長政はほかの諸将と三成の所業を訴えたが、それには文禄・慶長の役の一件も絡んでいただろう。秀吉の死後、長政は家康の養女(保科正直の娘)を妻に迎えるなど、急接近する。
 長政は、最初から完全な家康派だった。父の孝高もその立場に近かった。その点は秀秋と異なっていたといえる」と。
 文中、「文禄・慶長の役に出陣したが、石田三成と対立し関係が悪化した」とありますが、この表現は正確ではありません。黒田長政が文禄・慶長の役に出陣というのはその通りですが、三成の方は文禄の役には出陣しているものの、慶長の役では渡海していません。文禄の役で、三成が渡海したのは秀吉に代わってのことであり、奉行としての立場でした。文禄の役の際、三成らが東莱にいる黒田孝高と浅野長政を訪ねた際、二人が囲碁に興じて彼らにまともに応対しなかったため、三成がそれを恨んで秀吉にその所業を訴え、孝高が秀吉の怒りを買い帰国させられたということが「黒田家譜」に記され、それが実際あったかのように捉えられ、小説などでこの話はよく出てきます。しかし、この話について、中野等氏の「黒田官兵衛と朝鮮出兵」(小和田哲男氏監修『黒田官兵衛』所収)の中で、「後年石田三成等を貶めるために創作されたものに過ぎず、史実として採用することはできない」と指摘されています。その根拠として、「長吉(長政)が梁山に乗り込んで三成等と会話は行った」こと、孝高が帰国したのは、「沿岸部での城塞構築と晋州攻略攻略のいずれを優先すべきかで、現地と秀吉の判断が分かれており、官兵衛はこの調整を行うため名護屋に戻」ったが、「こうした行動は軍令違反ととられ」、「秀吉の不興をかった官兵衛は対面すら許されずに朝鮮に追い返され」たのが真相だったことが挙げられています。要するに、文禄の役では三成と黒田孝高・長政が対立した形跡はないことになります。
 一方、慶長の役では、黒田長政は秀吉によって処分されますが、蔚山城の戦いで追撃戦を行わなかったこと、現地の武将達が勝手に戦線縮小案を唱えたことが問題視されました。報告したのは、福原長堯ら軍監として現地に渡った者達でした。三成は文禄の役の際、渡海していかに不毛な戦いかはよくわかっており、小西行長等と共に講和を整えようと尽力しましたから、慶長の役の際も、現地部将達の苦労はよくわかっていたはずです。長政らに処分を下したのは秀吉ですが、報告した福原らの軍監が、三成に近い人物であったために、長政らの不満の矛先が、秀吉の死後、三成ら奉行衆に向かいます。三成の立場としても、軍監の報告や秀吉の下した処分を翻すことは出来ず、福原らを弁護せざるをえませんでした。そのあたりに、三成らの苦悩があったと推測されます。
 

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