石田三成の実像3132 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」141 中西豪氏「鍋島直茂の戦い」13 柳川攻めの意義・鍋島茂里の活躍

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、中西豪氏の「鍋島直茂の戦い」の中で、関ヶ原の戦いの後に、家康の命令のもと、鍋島・龍造寺家が立花宗茂を攻めた江上八院の戦いについても記されていますが、この戦いについての詳しい分析は、白峰氏・中西氏共著の「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の中で、詳述され考察を加えられており、拙ブログでも以前取り上げました。その後で書かれた、中西氏の「鍋島直茂の戦い」の内容は、「江上八院の戦い」と重なる部分も多々あるのは当然のことだと云えます。まず戦いを始める前の鍋島側の動きについて、次のように記されています。
 「10月初旬、勝茂率いる龍造寺軍は帰国した。恐縮しきりの勝茂はそのまま柳川城に攻め寄せようとしたが、直茂はそれを制して佐賀に呼び戻した。(中略)
 直茂は検使役の黒田如水と綿密な連携を図り、加藤清正とも連絡を取ったうえで、万全の態勢を整えて佐賀から出陣することとなる」と。
 直茂は勝茂が豊臣公儀軍として参加してから、一時、如水と断交していましたが、如水との関係の修復が図られたわけです。もともと直茂も如水も家康与党でしたから、修復はしやすかったのでしょう。柳川攻めの意味合いについて、中西氏の同書では次のように指摘されています。
 「関ヶ原前夜、龍造寺家中では勝茂を直茂の後継者とし、いずれその権力を移譲することが、龍造寺一門以下家臣団に承認されるに至っていた。最悪の事態には至らなかったものの、勝茂の西軍加担が龍造寺家を存亡の危機に曝したことは事実である。勝茂の失策で、鍋島家による龍造寺領国執政体制の鼎の軽重が問われ、鍋島家の勢力後退につながりかねない。そのことが問題なのは、何も鍋島家による御家乗っ取りが遠のくといった下世話なことではなく、直茂・勝茂ラインの後退は龍造寺領国支配体制の不安定化に直結するという危険なのだ」と。
 要するに、「鍋島家執政体制」を維持するためには、柳川攻めを成功させることが必至だったのであり、直茂はそのために「万全の態勢を整えて」戦いに臨んだわけです。さらに、中西氏の同書では、「これを奇貨として鍋島家執政体制のさらなる強化を図ろうとしたと思われる人物」として、「直茂の養子、鍋島茂里」の名が挙げられています。すなわち、茂里は、「10月11日に佐賀城で開かれた軍議において」、「龍造寺一門や重臣に有無を言わせず軍議の主導権を握」り、「茂里自身が実弟茂忠とともに先手を務めることを宣言し」、「勝利の暁にはこの戦いが『鍋島家の戦い』として周知されること」を目論んだと。中西氏の「最新研究 江上八院の戦い」の中では、この茂里の考えは、関ヶ原の戦いで、井伊直政が松平忠吉を伴って抜け駆けし、開戦の火蓋を切ることによって、「徳川の合戦」だと印象づけたのと同じだと指摘されています。もっとも、井伊直政が抜け駆けをしたという通説は、「最近の研究においては否定されつつある」と記されてもいますが。家康や徳川家の活躍を演出されるために後世創作された話は少なくありませんが、直政の抜け駆けもその一つだと云えます。 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント