旅行記269 石田三成の実像3131 7ヶ月ぶりの旅行 佐和山・関ヶ原・大垣3 佐和山城跡2 千貫井戸・女郎谷・太鼓丸跡

DSCN1472.JPG佐和山城の井戸跡である千貫井戸にも足を運びましたが、落葉が重なっているだけで水はほとんどないように見えました。しかし、枯れることのない井戸だと言われているので、落葉の下の方には水がたまっているのかもしれません。佐和山にこのような水があるのは、貴重で、千貫にも代えがたいというので、そう呼ばれるようになったということが、江戸時代の享保12年(1727)、井伊家の命令によって佐和山周辺の聞き取り調査をしたときの復命書「古城御山往昔咄聞集書(こじょうおんやまおうじゃくのはなしききあつめがき)」に記されており、そのことは、オンライン三成編「三成伝説」(サンライズ出版)でも取り上げられています。
 DSCN1479.JPG佐和山落城の際に、三成方のたくさんの女性たちが死んだり谷に身投げしたという女郎谷の方向を示す標柱はありましたが、女郎谷自体の標柱は完全になくなっていました。女郎谷については、「古城御山往昔咄聞集書」の中で、「落城の時に塩焇(煙硝)櫓に火をかけると、すぐに火は本丸に移り、籠城していた諸士の女中らは、即時に天守とともに爆(は)ぜ落ちた。その時の女中らの喚き叫ぶ声で、山も震動するほどだった。数多の女中らが亡くなったので、女郎ヶ谷というようになった」と記されていることが、「三成伝説」で紹介されています。こういう女郎谷の悲劇については、太田浩司氏の「近江が生んだ知将」(サンライズ出版)の中で、「佐和山落城は開城に近いものであり、多くの死亡者が出たとは考えにくい」、「伝承のように大量の死者が出たかは大いに疑問であり確証がない」と指摘されています。確かに多くの死者が出たとは考えられず、落城の悲劇を強調するために作られた話であるという気がします。佐和山城の瓦からは、燃えた跡が出土していませんが、山頂は10メートル余りも削られましたし、「佐和山落城記」には、「天守に火をかけて」という記述がありますから、ある程度は燃えたのでしょう。しかし、完全に焼け落ちたのではないことは、落城のすぐ後、井伊直政が三成の旧領を与えられて佐和山城に入り、そこで暮らしていたことでもわかります。
 DSCN1480.JPG 太鼓丸跡のところまで行きましたが、相変わらず太鼓丸の標柱は倒れたままでした。コロナ禍が収束した後、佐和山の整備にもう少し取り組んでほしいものです。もっとも、私自身、佐和山城の存在は知っていても、初めて佐和山城に登ったのは2000年の時ですから、まだ20年余りのキャリアがあるに過ぎませんが、それ以来30回ぐらいは登っています。

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