旅行記275 石田三成の実像3143 7ヶ月ぶりの旅行 佐和山・関ヶ原・大垣8 美濃赤坂へ・家康が築いた将軍宿泊用のお茶屋屋敷跡

 大垣に泊まった夜にオンライン三成会のリモート会があり、ホテルの部屋から参加しました。玉城跡の報告もしましたが、三成らがその城に入ったのかどうか、実際に関ヶ原の戦いがどこで行われたのか、さまざまな意見が出ました。今の通説を見直さねばならないという点では一致していたように思いますが。個人的には、三成らが玉城付近で戦った可能性は高いと思っています。大垣城を出て関ヶ原方面に移動したのは、こういう巨大城郭を準備していたからで、そこに先回りして決戦を行おうとしていたのではないかと。白峰旬氏などが主張されているように、三成ら豊臣公儀軍が関ヶ原エリアではなく、山中エリアに布陣したのは確かだと思っていますが、高橋陽介氏の見解のように、自害峰を中心に、動きの怪しい 秀秋のいる松尾山を牽制し、中山道を押さえる形の布陣を取っていたとするなら、敗北した三成らが北の伊吹山方面に逃げたというのは考えにくい気がします。彼らが玉城付近にいたのなら、伊吹山方面にはずっと近く、逃げやすかったような気がします。
 翌日の10日は、まずJRに乗って美濃赤坂まで行きました。大垣から2駅で、しかも美濃赤坂が終点ですから、短い路線であり、2・3時間に一本程度しか電車が走っていません。
DSCN1646.JPGDSCN1649.JPGDSCN1654.JPGDSCN1657.JPG 美濃赤坂駅から最初に西に歩いて10分程のところにあるお茶屋屋敷跡を10数年ぶりに訪ねました。岐阜県在住のオンライン三成会の人々に車で連れて行ってもらったところです。家康が慶長10年に完成させた将軍専用の宿泊施設で、家康や秀忠が上洛する際の往還に使用しましたが、宿場の整備に伴い次第に使われなくなり、数十年して取り壊されました。170メートルの方形の城郭形式で周囲には土塁や空堀があり、四隅には櫓がありました。今は牡丹園などの庭園になっています。慶長10年と云えば、家康が関ヶ原合戦で勝利した5年後で、すでに将軍職に就いていましたが、豊臣家は健在でしたから、家康は警戒して、宿泊場所もものものしい構えにしたのでしょう。むろん、将軍としての威厳を示す意味合いもあったと思われます。
 

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