旅行記272 石田三成の実像3137 7ヶ月ぶりの旅行 佐和山・関ヶ原・大垣5  通説では三成が陣を置いたとされる笹尾山・「三成伝説」の決定版に白峰旬氏の新見解も紹介

DSCN1583.JPGDSCN1584.JPGDSCN1589.JPGDSCN1594.JPG 9日の午後、玉城跡から、通説では関ヶ原の戦いで石田三成が陣を置いていたとされる笹尾山まで歩いて30分以上かかりました。2000年に関ヶ原合戦400年祭が行われた時、笹尾山のそばの関ヶ原北小学校のグラウンドで合戦の様子が再現されましたが、私は初めてその時に関ヶ原を訪ねました。笹尾山には馬防柵が造られ、旗印がなびいていますが、こういう光景はここ20年余り変わりません。玉城跡では誰とも出会わなかったものの、笹尾山には家族連れやカップルなどが次々に訪れていました。もっとも、最新研究では、三成が笹尾山に陣を置いたという従来からの説に疑義が呈されています。一次史料に笹尾山という名前は一切出て来ませんし、笹尾山を発掘調査しても、戦いが行われたことを示すものは何も出ていません。関ヶ原の各武将の陣跡が決められたのは明治時代になってからということも高橋陽介氏によって明らかになっていますし、主戦場は関ヶ原エリアではなく、もっと西の山中エリアであったという白峰旬氏の新見解も出されています。しかし、関ヶ原では、説明掲示板に書かれていることは従来通りの説に基づくもので、それが事実として世間の人々に広まってゆく怖さを感じます。
 もっとも、2009年に発行したオンライン三成会編「三成伝説」の中でも、関ヶ原の合戦については、三成は関ヶ原におびき出されたのではないという中井俊一郎氏の見解、島津隊が動かなかったのは二番備えだったという桐野作人氏の見解なども紹介しましたが、合戦の経緯はある程度通説に基づいたものでした。3年後に改装版を出した時も同様の記述でした。しかし、その後、白峰旬氏をはじめとした研究者が、一次史料などの分析から新見解を出され、納得できる点も少なくなかったため、2016年に改めて出した「決定版 三成伝説」では、新見解も最後に少し取り上げました。どちらに付くか迷っていた小早川秀秋に家康が鉄砲を撃たせて裏切りを促したというのは創作であり、秀秋は最初から家康方に付いていたこと、主戦場は関ヶ原ではなく、山中エリアだったこと、世間に知られている合戦の布陣図には歴史的根拠はないことなど。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 5

驚いた 驚いた 驚いた 驚いた 驚いた

この記事へのコメント